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イギリス行きのチケットをカウンターで受け取り、望美はいよいよだと感じる。 部屋の中の荷物整理も終えて、直ぐに航空便で送る手筈も整えた。 将臣とはもう一週間ほど会ってはいない。会っても笑える自信などあるはずもなかった。 もう逢うこともないだろう。 将臣は別の人生を歩むのだ。望美もまたそうだ。 予定よりも三週間早い旅立ちであるが、事前に申請していた就学ビザも下りているので何の問題もなかった。 鎌倉が秋色の絵の具をとき始める頃には、望美はここにはいないのだ。 そう思うと、ノスタルジアを感じる。 心に秋風が吹き荒れ、イギリスに行くのは本意ではないことを想い知らされた。 本当は、イギリスに勉強に行くのではなく、心の傷を癒しに行くのだ。 望美は家に戻る途中で、見慣れた人影を見つけた。将臣だ。 まともに幼なじみを見る余裕などなくて、望美は横を通り過ぎる。 「望美」 「こんにちは」 まるで顔見知り程度の挨拶をすると、望美は将臣から遠ざかる。 自然と早足になり、一刻も早く将臣のテリトリーから離れたくなった。 他人のもので、しかも父親になる将臣に未練たらしくはしたくない。 望美はまるで自分の巣穴に入って出てこない鵯のように、家に入った。 「ただいま」 「おかえりなさい、望美」 母親はちょうど有川家から戻ってきたところだった。 母親なら、有川家待望の初孫誕生の情報を知っているだろうか。 「お隣りで何を話してきたの?」 「いつも通りよ。奥さんが、明日の鎌倉案内のボランティアもお願いしますねって言っていたわよ」 「うん。最後のお手伝いだからね。頑張るよ。あ、お母さんチケットも準備出来たよ」 冷蔵庫からジュースを取り出しながらさりげなく言うと、母親は淋しそうな顔をせる。 「…寂しくなるわ、お父さんもお母さんも。有川さんもあなたがいなくなるから寂しいって言っていたわ」 ぴくりと望美は肩を震わせる。娘のように可愛がってくれていた有川夫妻は、我が子の旅立ちのように切なく思ってくれているだろう。 だが将臣はきっと、それほど想ってくれてはいない。 不意にインターフォンが鳴り響き、望美は僅かにその顔を引き攣らせた。 母親が来客を確認すると、直ぐにドアを開けに行く。 「こんにちは、将臣くん」 「望美、いますか?」 「いるわよ。望美! 将臣くんが見えたわよ」 母親の手前上、望美は拗ねて逢わないというわけにはいかない。 のろのろと歩きながら、望美は将臣に対応した。 「将臣くん…」 「どうしても話をしてぇんだよ。少しだけ時間はいいか?」 母親をちらりと見ると、楽しそうに笑っている。がっかりさせるわけにはいかなかった。 「解った。そこまで散歩をしようか」 「そうだな…」 望美はサンダルを履き、のろのろと外に出る。 これが最後の試練と思いながら。 夏の終わりの疲労が滲んだ光の下で、望美は先にすたすたと歩いていく。 「望美、先週はすまなかった!」 将臣の男らしい声が背中に突き刺さる。余りに真っ直ぐ過ぎて痛かった。 「…気にしてないよ。もう」 上辺だけを繕い、望美は静かに呟く。 「だけど俺が気にする。お前の誤解を解きたいし」 「私のことはいいから、彼女と生まれてくる赤ちゃんのことを気にして」 声が涙で震えるのを、精神力で押さえ付けると、望美はきっぱりと言い切る。 「ガキは出来ていねぇ」 将臣の冷め切った言葉に、望美は思わず振り向いた。 「産婦人科に無理矢理連れて行ったら、嘘だと言われた。少なくとも俺のガキじゃねぇのは解ってたし」 将臣はまるで他人事のように呟く。 「え?」 「あいつと俺は、一年ぐれぇセックスしてなかったからな」 将臣はさばさばした口調で言い、望美を射抜くように見つめてくる。そこには不実などどこにもなかった。 「…だけど…あんなに仲が良さそうだったのに…」 望美は俄かに将臣の話がリアルではないと思う。あんなに親密であんなに熱い雰囲気が出ていたのだから。 「望美、…いつ、イギリスに行くんだよ」 不意に空を見上げた将臣は切ない色を瞳に宿し、どこか心許ない雰囲気を持っている。 心が激しく揺さ振られる。 ふっ切ったはずの恋心が滲み、望美を苦しくさせた。 息苦しく、発作を起こしているのではないかと思うほどに、激しく鼓動を刻む。 「…来週…」 「…行くななんて言う資格は、俺にはねぇよな…」 ひとりごちるように言うと、将臣は自嘲ぎみに笑う。こんな切ない微笑みを見るのは、還内府の頃以来だ。 望美は泣きそうになる余りに、言葉をかけることが出来ない。広い背中が遠いものに思えると同時に、心許ない。 「…痛かったか…?」 将臣の手が望美の頬を撫でる。 一瞬、愛されているのではないかと、勘違いしてしまう。 「…痛くなかったよ、本当に…。痛くなかったんだ…」 触れられた頬だけがやけに熱い。 望美は熱を吸収するように浅い深呼吸をした。 「…将臣くんの心のほうが痛かったでしょ? 彼女を大切にしてあげてね」 心にもないことが、あまのじゃくな唇に付く。 将臣は寂しそうに笑うと、前髪をかきあげた。 「大事で好きなひとだもんね」 「…好きだとか、そんな感情はねぇよ、最初から…」 望美を見つめる真っ直ぐな瞳が揺れる。 そんな切ない瞳で見つめられたら、強く固めたはずの決心が揺らいでしまう。 「将臣くん…」 名前しか呼べない。 頭の中が上手く整理が出来ずに、何も言えなくなってしまう。 ふたりは黙り込むと静かに鎌倉の街を歩いた。 「…マジでごめんな、本当はお前を慰めるべきだったのにな」 「しょうがないよ、あの場合は…」 本当はそうは思えなかった。自分の味方をして欲しかった。慰めて抱きしめて欲しかった。 だがそんなことは言えなかった。 夕日に照らされた将臣を見つめながら、望美は唇を噛み締める。 「…来週なんだよな」 「うん。明日の鎌倉ボランティアが、取りあえずは最後のボランティアなんだ。荷物も殆どまとめ終わったんだ」 「そうか。お前は夢を叶えに行くんだよな」 将臣は小さく呟いた後、不意に望美を抱きすくめてきた。 「行くな…!」 魂から搾り出されるような声に、望美の心が激しく揺れる。 将臣から離れなければならないからこそイギリス行きを決めたというのに、こうして引き止められてしまえば、決心がガタガタと震え出す。 「行くなよ!」 「将臣くん…」 呼吸が出来なくて、望美は喘ぎながら呟く。 覆いかぶさるようなキスが唇に下りてくる。 それは明らかに、激しい恋情が滲んだキスだった。 決意なんてこんなに脆いものなのだ。 |
| コメント 想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら? のコンセプトの、パラレル的な物語です。 恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。 果たしてちんくまんは完走出来るか(笑) |