真夏の影


「まあくんっ!」
 彼女は瞳を涙でぐちゃぐちゃにしながら、逞しい将臣の胸に顔を埋めて、しっかりと抱き着く。
 殴られたのは自分なのに。
 将臣は所詮は彼女のもので、望美のものにはなり得ないというのに。
 なのに彼女は泣く。
 望美はぼんやりとふたりの様子を眺める。
 将臣は華奢な彼女の躰を抱き込み、背中を撫でている。
「泣くなよ…。大丈夫だから、マジ大丈夫だ」
 優しく響く将臣の甘いテノールに、望美は息の根を止められたような気がした。
 恋なんて総て手放してしまえばいい。
 恋なんて一生しなくても良い。
 打たれた頬よりも、望美は心が痛かった。
 少しずつ心に痛みが侵食して、えぐれていく。心が死滅するのは時間の問題だ。
 泣きたいが、泣けなかった。
 望美はふたりに一瞥を投げると、静かに駅へと向かう。
 耳の下が痛い。
 ひりひりしても泣くことが出来ない。
「…望美!」
 背後で将臣が引き止めるような声が聞こえる。だが、振り返ることが出来ない。
「まあくんっ! 行っちゃダメっ! ドロボウ猫なんか、追い掛けないでよっ!」
 彼女が将臣にしがみつき、行く手を阻んでいる。
 だがそんなことをしなくても決着は着いたのだ。
 将臣は彼女を取った。それだけだ。
 どうせ初めから、将臣は望美のものではなかったのだから、当たり前におさまっただけなのだ。
 頬に手を充ててみる。
 そこだけ細胞がうごめいているような気がする。痛みが届く頃には、泣くことが出来ないぐらいに恋心は死滅するだろう。
 望美は一筋だけ涙を零した。

 これからは、イギリス行きの準備だけに没頭すれば良い。
 恋や愛など面倒な感情は総て捨ててしまえば良いのだ。
 望美はアルバイトを終えた後、真っ直ぐと背筋を伸ばして家に帰る。
 もう何もいらない。
 何事にも揺さ振られることもない。
 だが、極楽寺の駅に下り立つと、将臣がただひとり立っていた。
 夏の喧騒に疲れ果てたような夕日が、将臣の広い背中を照らしている。
 眩しい、一生手に入れることが出来ない背中だ。
 今まで護ってくれて有り難うと心で呟いて、望美は何もなかったかのようにその横を通り過ぎた。
「こんばんは、将臣くん」
 するりと交わしたはずなのに、将臣は望美の腕を取る。
「おい、スルーかよ!?」
「スルーなんかしていないよ」
 望美は冷静を装うのに必死で、まともに将臣を見ることが出来なかった。
「今朝はごめん…」
 将臣は男らしく頭を下げ、望美を真摯な眼差しで見ている。将臣が心から謝ってくれているのは解るが、それでも望美の心の中は切なく痛かった。
「マジで痛かっただろ?」
「大丈夫だよ。彼女さんを不安にさせたらダメだよ。将臣くんのことを本当に大好きなのが解るから」
「だけど痛かったのはお前だろ? 強がるなよ」
 今は殴られた痕が無くなってしまった望美の頬を、将臣は親指でなぞってくる。
 背筋が震えて、望美は立っていられなくなる。死滅したと思っていた恋心が、痛みを伴いながら、むくむくと顔を出してきた。
「…大丈夫だよ、ホントに大丈夫なんだ…」
 声が震える。
 望美は必死に理性にしがみつきながら、将臣の顔を見ないようにする。
「…家に帰らなきゃ。私は大丈夫だから、彼女のこっを考えてあげて。私は良いから…」
 本音とは違う言葉が唇をつく。
 望美は避けるように将臣から離れようとしたが、男の力が腕に食い込んできた。
 本当は泣きたい。
 どうして将臣は、追い詰めるようなことばかりをしてくるのだろうか。
「話す余裕をくれ、俺に」
「話すことなんて何にもないよ」
 望美が離れようとすればするほど、将臣の捕らえる力は強くなっていった。
「俺にはあるんだよ」
「私にはないって言っているでしょ?」
 望美は必死になって抵抗する。抵抗しなければ、崩れ落ちてしまうから。望美は理性に縋り付いた。
「…俺が別れを切り出したから、あいつお前に八つ当たりをしたんだよ」
「別れって…」
 望美は思わず将臣を見上げる。
 驚愕だとか嬉しいだとか、そんな感情はなく、ただ電離が走ったような感覚が心臓を貫いている。
「…どうして…」
「…手に入れたかったものが手に入らなくて…、気を遣い過ぎて、失いそうになって。で、あいつに押しを決められてと付き合い始めたけれど…、やっぱりダメだった」
 将臣は空(くう)をノスタルジアを滲ませた瞳で見つめると、望美の手を握り締めた。
「…同棲しているし、家族にも相談したじゃない、将臣くん…。なのに、彼女が好きじゃないなんてことはないはずだよ」
 望美は声を震わせながら呟き、将臣の横顔を眺める。迷い子のような横顔は、望美を泣きそうな気分にさせた。
「…将臣くん、どうして?」
「好きというなら、好きだとは思う。だが愛じゃねぇよ。その証拠に、俺はあいつが誰と会っても、何をしても気にならねぇんだよ。それに同棲なんかしてねぇしな」
 将臣は望美の手をしっかりと掴みながら、引いていく。
「…勝手だね」
「そうだな、勝手だな。だけど恋って勝手なもんだろ? 勝手に誰かを好きになって、自分の勝手で相手を縛ろうとするんだからな」
 将臣は望美を抱き寄せると、息が出来ない程に強く抱きしめてくる。
「だから勝手ついでに言う。イギリスなんかには行くな。旅行ならかまわねぇが、お前のことだ。きっともう鎌倉には帰ってこねぇだろうからな。だったら捕まえるだけだ」
 喜んでいいのか、悲しんでいいのかが、望美には解らない。ただ頭が混乱して、上手く整理が出来なかった。
「…行くなよ、マジで」
 この上なく優しい言葉に、心の奥に眠る本音が頭を擡げてくる。だが、すぐに返事なんて出来やしない。つい口に出るのは、捻くれた言葉ばかりだった。
「行く」
「強情!」
「強情でいいもん」
「だったら実力行使をするまでだろ?」
 将臣が望美の腕を強引に取り、歩き始める。
 ドキドキして、忘れていた甘いときめきが心に広がってくる。
 イギリスが遠い靄の向こうに消えかかったところで、望美ははっと現実に引き戻された。
 泣き腫らした彼女が、こちらを睨み付けている。
「…まあくん、赤ちゃんが出来たかも」
 まるで勝ち誇ったかのような声で高らかに宣言をし、こちらに近づいてくる。
 その瞬間、望美の腕から、将臣の気配が消えた。
 子供。
 ふたりは恋人同士だったのだ。子供が出来てもおかしくはないことをしているのだろう。
 そう考えると、吐き気がもよおしてくる。
 もう触れないで欲しい。
 触れたくない。
 望美は一刻も早く、将臣から逃げたかった。自分の人生から、初恋のひとを締め出してしまいたかった。
 何も覚えてはいない。
 ただ、家までの道程を激しく走る。
 頭の中に、赤ちゃんが出来たという言葉が、ぐるぐると回っていた。

 死んでしまうのではないかと思ってしまうぐらいに泣いたから、もう大丈夫だと思っていた。
 だが研究室に行き、尊敬する優しい教授の顔を見ると、安堵したように涙が零れ堕ちていく。
「どうしたの!? 春日さん!」
「…先生…、イギリスに行くのを前倒しにしてもらっていいですか? 出来たら…、直ぐにでも…」
コメント
想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら?
のコンセプトの、パラレル的な物語です。
恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。
果たしてちんくまんは完走出来るか(笑)





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