真夏の影


 七里ヶ浜は想い出が詰まり過ぎているのに、将臣はどうして連れて行くのだろう。
 望美は将臣の背中に総てを預けながら、頬をそこに宛てる。ダイレクトに感じる幼なじみの温もりは、決してもう届かないものを象徴しているかのようだ。望美は胸がキリキリと傷んで、呼吸が旨く出来なくなっていた。
 切ない。辛い。痛い-----様々な厳しい感情が心に渦巻いているというのに離せない。
 将臣はもう望美のものにならない。そんなことは解っているのに、まるで自分の想いに縋り付くようにしがみついてしまっていた。
 夕方なのに、汗が滲む。それは爽やかな汗ではなく、どこか心のどろどろとした部分が一緒に流れているような粘性の高いものだった。
 滲んだ汗が肌に熱い膜を作り、重苦しい心の熱さを象徴している。望美は将臣に直に腕が触れないよう、少し離す。それは自分の醜い心の部分を識られたくなかったから。
「久し振りだな、こうやってチャリでニケツするの」
「高校生の時以来だね」
 あの頃は失う哀しさだとか、いつかふたりが離れ離れになってしまうことなど、考えたことなどなかった。
 永遠に明るい空がふたりの上に広がると疑わなかった頃。
 今はあの頃では想像出来なかったことがリアルに横たわっている。
 将臣は望美のものにはならない。
 ただそれだけがリアルな信じる。
「着いたぜ!」
 将臣は自転車を、優雅に着地をするツバメのように止めた。。
 七里ヶ浜前の信号近くに自転車を留め置き、将臣はまるで子供のように砂浜に下りていく。
「望美! 来いよ!」
「うん!」
 もう薄紫色の闇がしっとりとした絹のように下りてきているというのに、将臣はまだ躍動した太陽の下にいるようだ。
 望美はその先のずっと向こうの、街の灯りすらない真の闇の中にいる。
「七里ヶ浜にたまに来るのはいいな。夏だとすげぇヒトゴミだからな」
「そうだね。だけど懐かしいな」
「ああ」
 ふたりはごく自然に、かつて座っていたがたついた定位置に腰を下ろした。
 太陽の残熱がまだ遺っており、ほんのりと熱い。
 まるで自分の肌のようだ、望美はと思った。
「七里ヶ浜なんて久し振りだなあ。高校卒業してからは来る機会はなかったもの」
 海は将臣との想い出を象徴するから来るのは怖かった。だが、いざ来てみると、湘南の海はあの頃と少しも変わってはいなくて、望美を優しく包んでくれる。
 海は汚れているが、望美にとってはどこよりも澄んでいる場所のように思えた。
「こうしていると、高校生に戻ったみてぇだな」
 将臣は懐かしそうに笑ったが、望美は返事をすることが出来なかった。
 高校生の頃のようにはいかない。
 こうして将臣が一緒にいるというのに、その心はもう望美のものではない。あの頃なら、心の欠片でも掴めたのかも知れないが、もう逸れも出来ないのだ。
 将臣は別のひともの。
 この手に掴もうとしたものが、望美のそこに乗ることはない。
 望美は何も話せずに、ただ海を見た。
「海に来るなんて、高校生の時以来だよ。あれから近いはずなのに、一度も来てない」
「海に行きたいなんて、どういう心境の変化なんだ?」
 何でもないことのようにさらりと聞かれて、望美は口角を淋しく上げた。
「…想い出づくり…かな。後、海を見たら、心が落ち着くような気がして」
「そうだな。確かに心は落ち着く…。だけど想い出で栗なんて、どういう風の吹き回しなんだよ」
「気まぐれかな…」
 望美は誤魔化すように笑う中に、一抹の寂しさを込めて呟く。イングランド行きが決まれば、5年は帰ってこないつもりだったからだ。正式決定すれば、9月にはイギリスに飛ばなければならない。
 想い出を作るには、もう余り時間はなかった。
 望美はちらりと将臣の横顔を眺める。
 逞しくも良い顔になったと思う。しっかりと誰かを護ることが出来る顔だ。
 望美が護られることは、もうないのかもしれない。
「将臣くん、実家に帰っていたら、カノジョさんが淋しがるんじゃない?」
「んなことねぇさ。あいつは解っているし、それに毎日のように逢っているからな。淋しくはねぇだろ」
 どこか突き放してはいながらも、言葉に滲む恋と信頼が、望美を苦しくさせる。
 こんなことなら訊かなければ良かったと、望美は臍を噛んだ。
「何だか久し振りに海岸を歩きたくなったな!」
 将臣の横にいると、どんどん沈んでくる自分がいる。
 望美は気分転換に腕を伸ばすと立ち上がり、砂浜を歩き始めた。
 ミュールだから砂浜に沈み、かなり歩きづらい。だが歩かなければならない。一歩ずつゆっくりと歩いていたが、やはりバランスを崩してしまった。
「うわっ!」
 望美が倒れこみそうになったところで、お約束にも王子様の手が差し延べられる。
 がっしりとしていて美しい筋肉がラインを形成している腕が、アンバランスな望美の心ごと受け止めてくれる。
 腰に食い込む腕の逞しさと優しさが、凶器になって望美の胸に突き刺さってきた。
 こんなに優しくて、護ってくれそうなのに、将臣が真の意味で望美を護ってくれることはないのだ。
「ったく…。おっちょこちょいは、昔から全然変わっていねぇな」
 将臣は以前のように笑ってはいなかった。精悍な男の顔にどこか怒りを滲ませている。
 整った顔をしているだけあり、かなりの迫力があった。
 望美は傷ついた心を余計に萎縮させる。将臣の瞳をまともに見ることが出来ない。
 綺麗に日に灼けた逞しい腕が、望美のウェストラインに食い込んで離れない。
 滲んでくる強さに、望美は眩暈を覚えた。
 望美は固まったまま、ちらりと将臣を見る。将臣の本心は顔を見ただけでは、まるでマリアナ海溝に沈めているかのように、解らない。
「有り難う…。大丈夫だよ。ちゃんとひとりで歩けるから」
「ミュールだと歩けねぇだろ。強がるな」
 将臣の声は強張り、支えてくれている腕の力は更に強く食い込んでくる。
 力強く支えられてしまったら、何時でも支えてくれると思い込んで甘えてしまうから。
 そんなに甘やかさないで欲しい。期待をしてしまうから。期待できないことぐらいは、一番自分が識っている。
「大丈夫だよ、ホントに…」
「大丈夫じゃねぇだろ? 今だってこうやってふらふらしているくせに」
「将臣くんが離してくれたら、ちゃんと立てるんだよ」
 望美が将臣を見上げると、いきなり抱き寄せられた。
 心臓が史上最大の衝撃を伴い跳ね上がる。
「ま、将臣くん…!?」
「あんなり強がるな。お前は何も解っちゃいない」
「解ってないのは将臣くんじゃないっ!?」
 言葉が飲み込まれる。
 これから望美が口にする総ての言葉を、将臣は飲み込むように唇を重ねてきた。
 将臣には同棲をしている彼女がいる。そんなことを理性でぐるぐると回しているというのに、一向に役に立たない。
 将臣の荒々しいキスは、やがて望美から理性を奪い去った。
 重くのしかかる「他人の者」という不可侵な事実すらも。
 まるでお仕置きでもするかのように、将臣は舌で望美を凌辱する。
 足がどんどん砂浜に沈んで行き、望美は将臣に抱き着かなければ、底まで沈んでいくような気がした。
 ロマンティックのかけらすらないキスは、望美の心をハリケーンに巻き込んでいく。
 唇を離された時には、何もかもが消えて、ただ喪失感だけが遺った。
 将臣は心まで冷え切ってしまいそうなさえざえとした眼差しを、望美に投げ掛ける。
「…俺達はとうに昔には戻れなくなっていたんだな…」
 冷たく言い捨てられて、望美は顔色を失う。
 指の隙間からさらさらと砂が零れ落ちるように、なにもかもが擦り抜けていく。
「帰るぞ」
「うん…」
 背を向けた将臣が遠い。
 手を伸ばせば届くほど近い筈なのに、今は届かない。
 自転車の荷台に跨がり、帰路に付く。帰りは夏の闇よりも色濃い闇を心に宿す。
 もう気安く、将臣の背中には縋り付けないことを、望美は思い知らされた。
 豹のように嫋やかで、鞭のように鍛えられた将臣の肉体が望美を包み込むことなど、もうないのだと-----
コメント
想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら?
のコンセプトの、パラレル的な物語です。
恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。
果たしてちんくまんは完走出来るか(笑)





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