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まだ将臣のキスの感触が唇に遺っている。望美は小指を震わせながら、その先で唇をなぞった。 キスが本当は初めてだなんて、将臣にはとうてい言えない。 ファーストキスはずっと将臣が良いと思っていた。確かに望美の”想い”は遂げることが出来たかもしれないが、それは胸の奥が痛みで失神してしまうほどの切ないものだった。息苦しくてどうして良いか解らないキスは、将臣の戯れ。心に別の女性がいるというのに、どうしてそんなことが出来るのかと、望美は思う。 望美が望んでいたキスは、恋心が通じあったロマンティックなものだったのに、受けたキスは、望美の恋心が一方通行であることを思い知らされるものだった。 望美は食事も取らずに、ベッドに閉じこもると、声を殺して泣いた。 「…将臣くん…」 どこをどう間違ってしまったのだというのだろうか。手が届く位置にいたはずの将臣が、もはやどうしても追いつけない位置にいってしまった。 だからこそ人生をリセットしようと、イギリスに行こうと決めたのだ。 なのにキスをされて、こんなにも動揺している。 こんなにも期待をしている。 望美は最もほしいものが何だったのかを、改めて思い、それを手にいれられない悔しさに、瞳を涙で濡らした。 まるでソーダ水の沫のように、はかなくも恋は消えていく。 望美は何度も胸を上下させながら、おびょおびょと小さな子供のように泣き続けた。 目が腫れてしまった顔が恥ずかしくて、望美は珍しく化粧をしてそれをごまかした。目の下のくまも隠せるから、化粧というのは本当に便利だと思う。 望美は綺麗に化粧をし、浴衣を身にまとった。 今日は、地元のボランティアで、浴衣を着て外国人を観光案内をするのだ。 英語がよく出来るということで、将臣の母親に頼まれたのだ。 極楽寺の駅まで行くと、また将臣が、日にやけた美しい女の子と楽しげに話をしていた。 これが現実だ。 横にいる女の子は、誰もが認めるぐらいに、将臣とはお似合いだ。 同棲しているのも当然だと、望美は淋しく思った。 望美は何気ない風を装って、ふたりの横を擦り抜ける。 「おはよう、将臣くん」 「ああ、おはよう」 望美は振り返らずに足早に改札を擦り抜けていく。 背中に将臣の視線を感じながら。 電車に乗り込み、望美はようやく人間らしい呼吸をすることが出来た。 心臓がまだ震えている。 ふたりの姿を見るだけで死んだようになるなんて、重症だと望美は思った。 「…将臣くん…」 どうしようもないほどに好きで、どうしようもないほどに欲しいものは、決して手には入らないことを見せられた、望美は唇を噛む。 好きが胸のなかでいっぱいになり、望美は呼吸困難で死んでしまうのではないかと思った。 鎌倉での観光案内をしている間は、恋の苦しさを忘れることが出来た。 だが江ノ電に乗り、海が見えてくると、再び苦しみが滲んでくる。 「…どうしてこんなに好きなのかな…」 望美はひとりごちると、頬杖をついて車窓を眺める。 高校を出てから、海には行かなくなった。それは将臣と微妙な距離が出来た時間と重なる。 海と将臣。 望美には難航不落の城のように思えた。 駅を降り立つと、偶然、将臣を見掛ける。望美より10メートル先で歩く将臣は、朝一緒にいた女の子と一緒だった。女の子は、将臣のしなやかで美しく筋肉がついた腕を、しっかりと取っている。 楽しそうに笑っている横顔は、本当に幸せに輝いていて、望美は奈落に堕ちていく気分を味わっていた。 長い髪にはくるくるとエアリーウェーブがかかり、大きなリングのピアスがとてもよく似合っている。ブラウンのキャミソールに、ジーンズのショートパンツ。 今の望美とは正反対のスタイルだった。 望美は、湿気を含んだ風を浴びながら、心が膠着していくのを感じる。 かつてああして腕を取っていたのは自分だったはずなのに、ああして笑いながらふざけあっていたのは自分なのに…。 もう将臣には届かない。 もうどんなに願っても、緑や海や空が輝く夏の日のきらめきは、望美には訪れやしないのだ。 あのキスはただの戯れだったのだ。 望美が後ろを歩く間、将臣は振り返ることもなく、背中で何かを語るわけでもなかった。 望美は唇が白くなるほどに噛みしめると、消えていく恋を悼んだ。 家に帰り、望美はダイニングチェアにぼんやりと腰をかけていた。 「随分とお隣りは賑やかね」 母親は何気なく言ったのだろうが、今の望美にはずんと重い気分になる言葉だ。 「…将臣くんが彼女を連れて帰って来ているんだよ」 「…そう…」 急に母親の顔が曇るのが解った。 母親の昔からの夢は、有川の兄弟どちらかと望美が結婚することだった。将臣とはそうなるかもしれないと、どこか希望的観測を持っていたようだが、それは見事になくなってしまった。 「お母さん、そんな顔をしないの」 本当は母親よりも落ち込んでいる自分がここにいる。だが望美はごまかすように笑うと、母親の手を握った。 「お母さん、御飯にしよっか」 「そうね」 「私、着替えてくるから」 望美は母親の背中を叩いた後、微笑みながら部屋へと向かった。 母親に背中を向けると、途端に笑顔でいられなくなる。 望美は泣きたくなるのを堪える余り、声を立てずにしゃくりあげてしまった。 部屋で素早くサマードレスに着替える。これだと楽で快適だ。 夕食を取っていると、玄関のチャイムが鳴った。 「私、出てくるよ」 望美が慌てて玄関に出てドアを開けると、そこには将臣がひとりで立っていた。 「お前、無用心すぎ。ちゃんと確認してからドアは開けろよ」 将臣は苦笑いを浮かべながら、望美に西瓜を渡した。 「これ、母さんが持っていけって。それと譲が作った蜂蜜プリン」 「有り難う」 望美はふわりと消えて無くなるような笑みを浮かべると、頭を軽く下げた。 「それと母さんが、今日のボランティアのお礼がしたいらしいから、来てくれってさ。甘いの冷蔵庫に入れて、うちに来いよ」 将臣は普段と変わらないように見えて、どこか怒っているようにも見えた。 望美はまともに目を見られずに、わざとそらせてしまう。 「うん、解った」 望美はあっさり言うと、冷蔵庫の中に頂き物を片付けに行った。 笑顔でいられる自信はない。 なのに断ればきっと勘繰られる。 望美はなるべく冷静を装うべく、軽く深呼吸をした。 有川邸に遊びに行くのは、本当に久方ぶりだ。 もうずっと行っていない。 本当は足が重いが、使者を向けられたなら行くしかない。 「望美ちゃん! いらっしゃい!」 将臣の母親の熱烈歓迎ぶりに、望美は僅かな笑みを零した。 「今日の案内は好評でね、来週も来て下さいって。構わないかしら」 「はい。暫くは時間があるので」 「助かるわ!」 ピリピリとした緊張を感じる。彼女がこちらをじって見ている。手の平に汗を滲ませて、望美は息苦しくなった。 将臣の母親の明るい雰囲気とは違い、重い雲のような空気が流れている。 望美と母親が話していると、将臣が立ち上がる。 「こいつ送ってくるから」 擦り抜けていくふたりに、望美は猛烈な嫉妬を感じながらも、どこかで安心していた。 ここに三人でいるのは余りにも辛い。 自分が手に入らないものを見せつけられているようで、望美はほろ苦い気分を味わった。 将臣がいない間、暫く、有川家族と楽しく話をすることが出来た。 「望美ちゃん、やっぱりイギリスに行ってしまうのね」 「え、まだ、決まった訳じゃ…」 将臣の母親の声に顔を上げると、将臣が恐い顔をして立っていた。 |
| コメント 想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら? のコンセプトの、パラレル的な物語です。 恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。 果たしてちんくまんは完走出来るか(笑) |