真夏の影


 背後にいる将臣から、氷で出来たナイフのような殺気を感じた。
 背中に刺さり、見えない血液が噴き出しているようだ。
 どうして何も言わなかったことを、こんなに視線だけで責められるのだろうか。
 将臣には彼女がいて、もう幼なじみレベルですらも保つことが出来ないというのに。
 息苦しい威嚇に居心地が悪くなり、望美は立ち上がった。
「…おばさん、明日は早いから帰ります」
「今日は有り難うね、望美ちゃん」
 ニッコリと笑って挨拶をした後、将臣の前を横切ろうて、腕を強く掴まれた。
 怒りや独占欲などが腕の力から感じ取られ、呼吸が難しくなる。
「ま…」
「送ってく」
 有無を言わせない強い調子を振り払うように、望美は将臣を見た。
「いいよ、隣だし。それに将臣くんも疲れているでしょ?」
 望美はやんわりとした口調で、だがキッパリと断った。
「じゃあ、またね。将臣くん」
 望美は、将臣の腕からするりと抜け出そうとしたが、指が腕に食い込んだまま離れない。
「…離して」
「送る」
「歩いて30秒ぐらいだから…」
「いいんだ」
 将臣は望美を引っ張るように玄関先に出ていく。これでは振り切ることは出来ない。
「…望美、イギリスに行くのか?」
 ミュールを履いていると、将臣は迷い子のような声で呟く。
 そんな声で切なく囁かれてしまえば、決心が鈍る。望美は息苦しさを感じながら、将臣を見た。
 ふたりの間には、明らかに幼なじみののんびりとした雰囲気は霧散している。お互いに牽制する強さだけが目立っていた。
 ふと、将臣の綺麗な彫刻が施されているような鎖骨が目に入った。
 そこにはくっきりと彼女がつけただろう、所有の痕が刻まれている。まるで望美を嘲笑うかのようだ。
 冷水を浴びせ掛けられたような気分になり、望美は目を閉じた。
「将臣くん、いいよ、本当に送るなんて大袈裟だから」
「送る」
 まるで駄々をこねている小さな子供のように、将臣は言い、逃げないように腕を取る。
「望美、外に出ようぜ」
「ホントに大丈夫だよ。将臣くん、幼なじみに甘やかせし過ぎているよ」
「…いいんだよ」
 こんなに腕を強く持ち、望美を離さないようにする将臣は初めてだった。
 だからこそ胸が苦しくなる。
 こんなに強く所有を主張されたら、期待せずにはいられなくなってしまう。
 将臣が好きでいてくれるということを。
 だが現実には、将臣は他の女性のものなのだから。
 それを思い知らせるように、紅い所有の痕が闇に光っていた。
「じゃあ、そこまで」
 外に出ると、海風が心地良い。
 昼間はあんなにも激しく暑いのに、夜は僅かに冷気を孕んでいる。
 こうして秋がやってくるのだ。
 順調にいけば、秋にはイギリスに行くことになる。
 どこか諦めきられない自分を、言い聞かせなければならなくなるだろう。
「最近、よく大学に行っているのは、イギリス留学の選考のためか?」
「そうだよ」
「もし、決まったら、何時から行くんだよ」
「夏休みがあけたら直ぐに…」
 淡々とした会話が続いてはいるが、ふたりの周りには重苦しい空気が流れる。
 何でもないことのようなのに、どうしてこんなにも重苦しい空気が纏わるのだろうか。
「イギリスに行ったら、いつ帰ってくるんだよ」
 将臣は空を見上げながら、まるで拗ねている小さな男の子のように呟く。
「五年は帰ってくるつもりはないんだよ。それ以降も解らない」
 将臣が誰かと結婚して、幸せな生活を送っている様子を見たくはなかったから。だから帰るつもりなどなかった。
「どうしてそんなに帰って来ないんだよ!?」
 将臣は珍しくも激情をあらわにしながら、望美を抱きすくめてきた。
「…ま、将臣く…んっ!」
 名前を呼ぶことすら苦しいほどに、強く抱きしめられていた。
 将臣の肌からは、夏の熱気よりも更に強い熱さを感じる。暴力的な熱さに、目眩がしそうだ。
「…俺に黙って、そんなことを勝手に決めるな…!」
 誰にも隠している奥深い場所から搾り出されたような悲痛な声に、望美は喉の奥が痛くなるのを感じた。
 酸素不足でくらくらするほどに抱きしめられると、一瞬、将臣が自分のものだと勘違いをしてしまう。
 だが理性は望美に激しく叫ぶ。将臣は始めからお前のものではないと。
 将臣はもう違う道を歩き始めていると。
「…離して」
 離れなければならないと自分に言い聞かせるように呟いても、将臣の腕は益々力を込めるだけ。
「…いやだ」
 まるで玩具を離さない子供のように、将臣は望美を抱え込んで離さなかった。
「お願い、離してよ」
「イギリスなんて行かないと、お前が宣言をしたら、離してやっても良い」
 意地悪だと、望美は想った。
 心がちぎれてばらばらになってしまうほどの片思いを、将臣にしているというのに、なんて酷い男なのかと想う。
 狡くて酷い。
 男気がある将臣の、小さな子供のような部分を識っているのは、自分だけかもしれないが。
「…将臣く…」
 このままでは、まるで蟻地獄にでも嵌まってしまったかのように、将臣から抜け出せなくなる。
 将臣を純粋に愛しているだろう女性を傷つけて、自分の魂までもを傷つけて。
 そんなことが堪えられるはずなんてない。
 望美は将臣から逃れるように躰をずらした。
 それをまた追い掛けてくるかのように将臣が捕まえてくる。
 恋情に追い詰められて、このまま死んでしまうのではないかと想うほどに、望美は追い立てられていた。
「…んっ…!」
 埒があかないとばかりに、将臣は凶器のようなキスを浴びせてくる。
 無理矢理唇をこじ開け、まるで望美の本心を盗んでしまうかのように、将臣は舌で望美の熱い恋心を探した。
 抵抗しようとすればするほど、将臣のキスは激しさを増してくる。
 同棲している恋人もいるというのに、どうしてこんなにも追い詰めてくるのか。その姿は、まるで嫉妬でもしているかのようだった。
 望美を傷つけずにはいられないように、子供じみた感情をぶつけてくる。
 キスの甘い心地よさと混乱する苦しさが、望美に涙を溢れさせていた。
「…っ…!」
 口角を噛まれ、痺れる痛みに顔をしかめる。心と同じように痛くてしょうがなかった。
 将臣は息を乱しながら、唇を離してくる。
 望美は涙を滲んだ瞳で、幼なじみを見た。
 頭がこんがらがって、どうして良いか解らない。
 将臣の鎖骨に刻まれた紅い華に、望美は視線を向けた。
「…彼女さんに悪いよ…」
 声が涙で滲む。
 望美が放った言葉は、冷水を浴びせるのと同じぐらいの効果があるようで、途端に将臣の顔色が変わった。
 腕から力が抜ける。
 将臣はやはり彼女が大切なのだ。
 望美は、将臣が誰を想っているかを思い知らされ、心から血の涙が流れるのを感じながら、俯いた。
「…送ってくれて有り難う…」
 小さく呟くと、望美は逃げるように家に入る。
 後は部屋に閉じこもって泣くだけだ。
コメント
想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら?
のコンセプトの、パラレル的な物語です。
恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。
果たしてちんくまんは完走出来るか(笑)





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