真夏の影


 熱が下がらない。喉ののみも強烈で、耳の下までが痛い。
 失恋したうえに、こんなに酷い風邪を引くとは、弱り目に祟り目とはまさにこのことだ。
「望美、お医者様に往診してもらわないとならないわね」
 体温計を見るなり、母親は溜め息をついた。
「大丈夫だよ、大袈裟だなお母さんは。病院ぐらい、ひとりで行けるよ」
 望美は母親をやんわりとせいすると、病院に行く支度を始める。もう成人したというのに、母親のなかでは、いつまで経っても、”小さなのんちゃん”のままなのだ。
 強がっていても、本当は”小さなのんちゃん”のままだということを、母親は気付いているのかもしれない。
 頭がふらふらし、躰にもみしみしとした痛みを感じる。
 望美がふらふらしながら玄関先に出ると、チャイムが鳴った。
「こんにちは、望美を迎えに来ました」
 将臣が玄関先で立っており、男としての存在感を望美に示している。
 逃げられない。
 ここにいなければ逃げ出すことが出来たというのに。
 もうこれ以上切ない想いなどしたくないのに。
 望美は恨めしい想いで母親を睨みつけた。
「将臣くんが、病院まで連れていってくれるって」
「そんな状態だとひとりで病院になんて行けねぇだろ? 車出してやるから、行くぞ」
 強引に腕を取られて、有川家の駐車場まで連れていかれる。
「望美、ほら立てよ」
「う、うん…」
 将臣にこんなに密着してしまうと、胸の奥が切なくなる。ただでさえ高い熱が、更にヒートアップしていく。
 将臣は男としての色香を滲ませながら、望美を車に乗せてくれた。
 頭と心がくらくらする。
 息苦しいのに、心苦しいのに、何故か幸福を感じる自分がいた。
 当たり前のように助手席に座らされたが、望美は小さな子供のように頭を横に振った。
「…将臣くん…後ろのほうが良いよ。横になれるから…」
「俺がバックアップしてやれねぇからここに座っておけ」
 将臣は有無言わせぬように望美を睨みつけると、強引に助手席に縛り付けるように、シートベルトをした。
 近付く将臣の熱や香りが、望美から判断力を奪い取っていく。
 まるで楽園を歩いているように思えて、幸せなくらくらとどきどきを生んだ。
「…無理し過ぎじゃねぇのか? 勉強」
「…そんなことないよ。ベストを尽くさないと後悔するような気がしたから…。大丈夫だよ、本当に…」
「んな無理して笑うな。俺の前で強がる必要なんてねぇだろ」
 優しくなんてしないでほしい。期待し過ぎてしまうから。
 望美は将臣の優しさを素直に受け止めることが出来ずに、心を強張らせる。このまま受け入れてしまえば、もっと傷つくような気がした。
「彼女さんに悪いよ。私より彼女さんを大事にしなくちゃ…」
「いいんだよ、んなことは」
 何処か苛々しているように将臣は言い、車のエンジンを思い切りかける。
「行くぞ。気分が悪いなら寝てろ」
「うん」
 小さなコンパートメントに閉じ込められて、安心して眠れるわけがない。すぐ近くに将臣の存在の大きさを強く感じ、望美の心や皮膚を刺激していた。
 病院に着き、ふたりは待合のロビーで並んで座る。
 こんなに近くにいると、心臓が痛くなってしまい、風邪ではなく、別の病気になってしまうのではないかと思った。
「…アルバイトは良かったの?」
「心配するな。今日は休みだ」
「そうなんだ」
 会話がこれ以上は続けられない。
 重い沈黙に、どこかそわそわとしてしまっていた。
 屈託のない幼なじみでいられた頃、飽きることなく、隠し事などもなく、お互いにあっけらかんと語り合ったものだ。
 沈黙が発生しても、それはブレイクのようなもので、心地良い静けさだった。
 なのに今は、沈んだ鉛色をした沈黙がふたりに漂っている。
 もう、あの頃には還ることはないのだ。
 きらきらと輝く夏の海のような瞬間には。
 ふたりの人生はもう、完全に別けられてしまったのだ。
 望美は待合ロビーの天井を見上げながら、スクエアが幾つあるのか数えていた。
「おい、ぼんやりして平気なのかよ」
「大丈夫だよ。早く順番が来れば良いと思っているだけだもん」
 本当に心からそう思わずにはいられない。
 診察が終わってしまえば、この緊張した状況から脱却出来るはずだから。
「春日さん、どうぞ」
 名前を呼ばれて、望美はホッと力を抜くと、よろよろと診察室に入ろうとする。
「おいっ! ふらついているんじゃねぇよ」
 将臣は望美の腕を支えるようにがっしりと捕まえると、そのまま診察室に一緒に向かう。
 将臣に対する隠しきられないときめきに、余計に頭の中が沸騰した。視界が歪み、立てないほどに熱くなる。
「おい、マジで大丈夫かよ」
 お願い。そんなに優しくしないで欲しい。必要以上に甘えてしまうから。
 これ以上優しくされたら、逆に付け上がってしまうから。
 望美が診察椅子に座ると、将臣は一旦部屋から出て行った。
 だがその気配は、診察室の向こうで存在を主張している。
「診察を手早くするわね。彼が心配しているみたいだから」
「彼じゃないです…」
「またまた否定しなくて良いのよ。あんなに心配している男性を見るのは久し振りだわ」
 ニコニコしている女性医師に、もう否定する気にはなれなくて、望美はただ黙っていた。
「かなり酷い風邪ね。疲れていたみたいだから、こじらせたのね。点滴して帰りなさい。後、今日、明日はしっかりと安静にすること。彼に看病して貰ったら、直ぐに元気になれるわよ」
「…有り難うございます。それから彼じゃないです・将臣くんは…」
「恥ずかしがらなくて良いの。あ、点滴の準備が出来たみたいだから、処置室へ彼に連れていって貰いなさいね」
 望美はのろのろと立ち上がると、自力で処置室に向かおうとしたが、直ぐに将臣に支えられた。
「大丈夫だよ」
「こんな時に、ワガママな強情は張るな」
 将臣は不機嫌なままで、望美を処置室へと連れて行ってくれる。
 きっと病気だから、望美の母親に頼まれたから優しいのだ。
 だがもうすぐこの優しさもうしなう時がやってくるのだ。
「…大丈夫なんだよ。それにもうすぐ、何でもひとりでやらなければならなくなるし…」
 将臣の動きが一瞬止まる。望美を支える腕の力は強くなり、肌に食い込んだ。
「甘えていればいいんだよお前は」
 言い捨てるように呟くと、将臣はもう何も言うことはなかった。

 点滴を済ませ、薬局で薬を貰って車に乗り込む。
 何だか酷く疲れてしまい、望美は深い目を閉じた。
 将臣が運転する緩やかなリズムに揺られていると、まるで母親の胎内にいるような気分になる。
 こんなに近くにいるのに、将臣は遠い。想像出来ないほどに遠い。
 もう別空間の人間だと思わずにはいられなかった。
「…将臣くん…言ったよね、”俺達はもう昔には戻れない”って…。今日は改めてそう思ったよ…。私たちはもう、元には戻れないし…、戻っちゃいけないんだよ」
 声が上擦る。
 だがそれは、熱のせいにした。
コメント
想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら?
のコンセプトの、パラレル的な物語です。
恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。
果たしてちんくまんは完走出来るか(笑)





back top next