真夏の影

7


 自分で将臣を突き放すようなことを言ったくせに、望美は自分自身がひどく傷ついている。
 将臣から卒業しなければならない。
 望美はちゃんと解っているつもりなのに、小さな”のんちゃん”はそれを解ってはいない。将臣を求めて、いつも泣いているのだ。
 ベッドに横たわりながら、望美は切ない想いを抱える余りに窒息しそうになっていた。
 熱の息苦しさと、恋の息苦しさを感じて、何度も寝返りを打つ。
 不意に部屋をノックする音が聞こえ、必死に泣きそうな顔や声を取り繕った。
「は、はい!」
「望美、俺だ。見舞にきた」
 将臣は望美の返事を聞く前に、堂々と部屋の中に入ってきた。
「…甘いゼリーとかいるだろ?」
 熱と感情でぼんやりとした望美の視界に、将臣は洋菓子店の箱を掲げた。
「…有り難う。今はあんまり食欲ないから…、後で食べるよ」
「ったく、お前のことだからどうせ食わねぇだろ? おばさんに雑炊作って貰ったから、それを食って、デザートでゼリーを食え」
 まるで兄のように世話を焼いてくれる将臣に、望美は温室の中で仲良く遊んでくれた日々を重ねる。
「…躰を起こして、少し食え。食べなきゃ薬も飲めないだろ」
「うん」
 躰をゆっくりと起こすと、将臣が手伝ってくれた。
「大丈夫か?」
「もう小さくないから自分で出来るよ」
 言葉にしながらも、望美はどこか寂しい気分を禁じ得なかった。
「将臣くん、ここにしらす雑炊を置いておくからね。後はお願いしますね」
「はい、おばさん」
 将臣が望美の世話をしているのをどこか嬉しそうに笑いながら、母親は机の上に土鍋を置いた。
「ワガママ言うなよ。しっかり食えよ」
「…うん」
 小さな茶碗に、出来立ての熱々の雑炊をよそい、将臣はスプーンで一口掬う。
「ほら、あーん。ちゃんと食えよ」
「う、うん」
 望美が小さく口を開けると、熱い雑炊を含む。
 耳まで熱くなりドキドキするのは、きっと雑炊が熱いからだ。望美はそう思い込むようにしていた。
「将臣くんがこうして看病してくれるのは高校生の時以来だね…」
「そうだな」
 将臣の表情は柔らかかったが、どこか苦悩も感じられる。
「勿体ないことをしたかもしれねぇな…。ここのところずっと」
「…そうだね。だけど…、私たちが成長した証拠じゃないかな。ずっと子供のままではいられないもの…」
「そうだな」
 こうしてふたりで黙りこんでいると、部屋が息苦しい空間になる。
 いつから黙っていると、こんなに重苦しい雰囲気を持つようになってしまったのだろうか。
 胸が苦しくなって、折角のしらす雑炊も喉に上手く通らなくなってしまった。
 将臣にスプーンを差し出されても、望美は頭を横に振る。
「どうした? 食わないと元気になれないぜ?」
「食欲、あんまりないもの」
「ったく、小さな頃のままだよな、お前」
 どこか切なげに将臣は目をスッと細めると、指先で望美の頬のラインを撫でた。
 一瞬、心も躰も酷く震わせてしまう。
 甘くて苦しい感覚は、望美の中で寝たふりをしていた傷つきやすい小さな”のんちゃん”が、頭を擡げてくる。
「…お腹いっぱいだもん」
 小さな頃と変わらない口調で言うと、将臣は喉を鳴らして笑う。
「お前、小さい頃と同じ言い訳だよな。嫌いなもんを食わなくちゃならない時に、必ず”お腹イッパイ”って言うんだよな」
「だけど本当だもん」
「そこも全く同じだな」
 将臣は苦笑いをすると、甘やかさを滲ませた視線で望美を縫い止める。
 まるでふたりがいる空間だけが、時空の流れとは別の場所に眠っているような気分になった。
「…変わらないな、やっぱお前は。…どうしてそれに気付かないふりをしていたんだろうな。俺は…」
 ひとりごちるように将臣は呟くと、空(くう)を見つめた。
 今度は甘い痛みが胸に突き刺さり、望美の飽和状態にする。
 将臣は、この数年のふたりの関わり方を後悔しているようにも思える。
 もし将臣に恋人がいなければ、すんなりと上手くいったかもしれないが、恋人がいる以上はもう、ふたりがその先を進むことはないのだ。
「…ごちそうさま、お腹いっぱいだよ」
 望美は小さく手を合わせると、溜め息をついた。
「しょうがねぇやつだな」
 将臣は愉しそうに言うと、雑炊が入った土鍋に直接スプーンを突っ込み食べ始めた。
「やっぱり湘南名物しらす雑炊だよな。旨い!」
「ちょ、将臣くんっ! 風邪が移っちゃうよ」
「お前と違って、俺はウィルスの耐性が出来てるの! 気にするな」
 そんなことを豪快に言われても、望美は困ってしまう。
 だが、どこか嬉しくも思っていた。
 間接キスは恥ずかしいけれども、ときめきを産む素敵なアイテムだ。
 望美は、ガツガツと食べる将臣の様子を見ながら、幸せな情景だとひしひしと感じていた。
「将臣くんの食べっぷりを見ていると気持ちが良いね。こっちまで元気になったような気分になるよ」
「だったらいいけれどな」
 将臣はぺろりと土鍋の雑炊を食べると、望美に笑いかけてくる。
 子供の頃と殆ど変わることがない笑みに、望美も思わず無邪気に笑った。
「こうやってな、俺達がじっくりいたなんて、久し振りじゃねぇか?」
「そうだね、うん、久し振りだ」
 笑い合うと、空気が柔らかく変質する。ふたりにとって柔らかな皮膚のようにしっくりとくる空気は、華やかなときめきを生んだ。
「たまにはこうやって、顔を付き合わせて話すのも良いかもしれないな」
「そうだね。私たちには足りなかったことなのかもしれないね」
 幼なじみの気の置けなさが戻ってきたようで、望美は嬉しかった。
 ちゃんとしたスタートラインをふたりがまた立つことが出来るような錯覚を覚える。
 もし、ふたりが恋のスタートラインに立てるのならば、イギリス行きは止めてしまっても良いと、どこか希望的観測を持っていた。

 愉しい時間が過ごせたから、翌日にはすっかり体調が良くなっていた。
 熱も下がり、息苦しい雰囲気を感じることもない。
 どこか雲の上をふわふわと歩いているような、幸福を感じた。
 今朝も何時ものように極楽寺の駅へと向かう途中で、望美は将臣と出会った。
 何故かいつものように彼女はいない。
 将臣がただひとりでいる。
「おはよう、将臣くん」
「おはよう」
 思えば、きちんと目を見て挨拶をしたのは、いつぶりだっただろうか。
「すっかり良いみてぇだな」
「うん」
「だったら看病代金をせしめねぇとな」
 将臣はニヤリと微笑むと、照れたように望美を見る。
「…今夜、一緒に居酒屋でも行って、酒を飲まないか? 久し振りに昔話でもしようぜ」
「うん! 行こう!」
 望美は嬉し過ぎて即答をする。ときめく余りに、小さな女の子のように頬を紅潮させる。
 幸せな時間が流れ始めたと、確信していた。
コメント
想い合うのことに気付くのに遅れてしまったら?
のコンセプトの、パラレル的な物語です。
恋の甘さと切なさ、愛の厳しさがテーマです。
果たしてちんくまんは完走出来るか(笑)





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