11
こんなにもドキドキする。 その香りを嗅ぐだけで、甘い切なさが心のなかを支配してくる。 将臣に優しくされて、ただ甘い微笑みを見せて貰えるだけで、幸福になれる。 こんなに素直に好きになれる相手を、どうして忘れてしまえるのだろうかと、望美は思わずにはいられなかった。 朝食を食べながら、将臣を待つ。 ときめきすぎて落ち着くことが出来ない。 望美は食事をしながらも、心はここにあらずといったところだった。 「おはようございます。望美を迎えに来ました」 「どうぞ!」 玄関から聞こえる将臣の声に甘い疼きを感じながら、望美はゆっくりと玄関に向かった。 「おはよう、将臣くん」 「ほら、鞄を貸せよ」 「うん、有り難う」 望美が素直に鞄を手渡すと、将臣はそれを受け取り頷く。 「行こうぜ」 将臣が自然に手を差し延べてくれ、望美はそれを取る。 「有り難う」 手を繋ぐようなかたちで、自転車前まで連れていってくれる。 荷台に乗ると、望美はドキドキしながら、がっしりとした将臣の腰に手を回した。 「しっかり捕まってろよ」 「うん!」 将臣の背中になら、なにもかもを預けることが出来る。 望美は幸せでどこか切ない気分に浸りながら、そっと目を閉じた。 将臣を独占出来る。 望美はそれだけで、何故だから幸せを感じる。 こんな素敵な幼なじみを独占出来るなんて、なんて幸せなのだろうかと思った。 「将臣くん、本当に有り難うね、いつも」 「なあ、もっとワガママ言っていいんだぜ?」 「ワガママ? 今でも充分ワガママだよ。それとも以前はもっとワガママだったのかなあ」 緑の匂いがする清々しい極楽寺坂の風を感じながら、望美は弾むような声を上げた。 「そうだな、今のお前は以前のお前に比べて、遠慮ぎみだし、他人行儀過ぎ。だから、もっと俺に言えよ。俺だけにな」 こんなことを言われると、益々好きにならずにいられない。 「…そうだね。だったら、海でも見たいな…」 「了解、学校の帰りにでも寄って、かったるく遊ぼうぜ」 「そうだねー」 望美が将臣の背中にそっと耳を充てる。心地良い鼓動の音に、幸せを見出だした。 「海に行きたいな、俺も」 「うん、行こう」 まるでデートのようだと、望美は思わずにいられなかった。 授業が終わり、ふたりで久し振りに海岸に出る。 まだまだ寒いが、とても気持ち良く感じる。 「…気持ち良いね! やっぱり地元の海は最高だね! 病院から海をずっと見ていたんだけれど、行きたいと思っていたんだよね」 「だったら良かったか?」 「うん最高」 まだまだ普通に歩くことが難しいので、将臣に捕まりながら、ただコンクリートの部分で立っているだけだ。 それでも望美は充分満足していた。 「入院をしていた時にね、日坂からと七里が浜から夕日が見たかったんだよ」 「そうか。じゃあ、もう少し、浜を歩くか?」 「いいよ、今はここで。満足に歩けないからね」 望美が遠慮をすると、将臣は眉を寄せて少し不快な顔をする。 「…歩こうぜ、手伝ってやるから」 「え、いいよ」 「いいから」 望美は、将臣が何をするのか具体的には解らず、ただ探るようにその顔を見上げた。 「歩こうぜ」 「きゃあ!」 将臣が突然抱き上げてきたものだから、望美は驚いて声を上げた。 お姫様抱っこが恥ずかしくて、どうしていいか解らない。 しかも将臣のファンが見ていたら何を言われるか解らない。 「ま、将臣くんのファンが見ていたらっ!」 「俺にファンがいるかよ。芸能人じゃあるまいし」 「憧れている女の子は多いはずだよ」 「関係ねぇよ」 望美がこんなにも焦っているというのに、将臣は気にもせずにあっさりとしている。 男らしさとおおらかさを感じずにはいられなかった。 「…それとも、お前は俺にこうされるのが、嫌なのかよ?」 将臣の声が、不機嫌そうに強張っている。瞳の奥にある輝きは、望美を激しくドキドキさせる。 「そ、そんなことないよ」 「そんなことはあるんじゃねぇの? それともお前が、誰か他に見られたくないやつがいるとか?」 低くて魅力的な声は、時として凶器にもなる。将臣の闇がかかった瞳は、望美の呼吸を奪うには充分だった。 「…そ、そんなことないんだ。本当に、ただ恥ずかしいだけなんだよ…。何だか、将臣くんにお姫様抱っこをされるだけで、恥ずかしくて、その、熱くなるっていうか…」 望美が俯くと、将臣は瞳を覗きこんでくる。 「譲でもか…?」 ゾクリと背筋が震えてしまうようなときめきに、望美はいっぱいいっぱいになる。 余裕なんて少しもあろうはずがなかった。 「どうして譲くんなの?」 「答えろよ、望美」 声を荒げるわけではなく、静かに問い詰められるものだから、余計に心臓に悪い。 肌が痛くなるほどの緊張に、望美は喉を鳴らした。 「…譲くんに見られても構わないよ」 ゆっくりと言葉を飲み干すように呟くと、望美は将臣を見上げた。 「マジか?」 念を押してくる将臣は、どこか小さな男の子のようだ。 「うん、マジだよ」 「そっか…」 スッと闇の煌めきは姿を潜めて、逆に安心と照れが交じった光が瞳に宿っている。 煌めきの落差を見せ付けられて、望美の魂は揺らいだ。 「…将臣くんにこうして貰うのは、ホントに嫌じゃないんだ。ただ…、本当に恥ずかしいだけなんだよ…」 「そっか」 「うん」 視線が絡み合う。 将臣の瞳は眩しいぐらいに煌めいている。望美はうっとりと瞳に魅入っていた。 「…歩くか」 「うん。久し振りに風を感じたいよ」 将臣がゆっくりとしたペースで、海岸を歩いてくれる。 ふたりを照らす冬の夕日は、春への憧れを秘めているように美しい。 様々な夕日を見たが、やはり原点は、この浜の夕日と、日坂からの夕日。 故郷湘南の海がどこよりも美しく思えた。 望美はただ夕日に照らされる、将臣の整った横顔を見つめる。 本当に美しくて、ときめかずにはいられなかった。 空が紫に染まり、太陽がしばしの休息をする頃、ふたりは江ノ電に乗り込み家路に着いた。 こうしていつまでも将臣の傍にいられたら良いのにと、願わずにはいられなくなる。 望美は将臣と一緒にいられることを、何よりもの奇跡だと思っていた。 極楽寺駅で江ノ電を降りると、将臣が強張る表情を見せた。 「どうしたの? 将臣くん?」 視線の先にいるのは、綺麗な女の子だ。 「ねぇ、春日さん。わざと事故に遭って、将臣を独占するなんてどういうつもり!?」 女の子の怒りの表情に、望美は目眩を覚えた。 |
| コメント 「迷宮」ED後です。 茶吉尼天によって、望美のことだけを忘れた将臣は? をテーマにした物語です。 |