もう一度恋をしたい


 一瞬、望美に何を言われたのか、将臣は解らなかった。
「…あ、あの…、あなたは…誰ですか…?」
 怪訝そうに将臣を見つめながら、望美な声は硬い。
 結ばれた手を怪訝そうに見つめ、どこか困惑気味だ。
 望美が自分のことを忘れている? そんなことはないはずだと、将臣は必死になって自分に言い聞かせる。
 背筋に冷たいものが駆け抜け、嫌な予感に窒息しそうになる。こんなことはあって良いのだろうか。
 将臣は心臓が動いていないのではないかと感じながら、現実に戸惑ってしまう。
 望美もこんな不安を感じたのだろうか。
 自分の記憶だけを失った将臣を、どんな気持ちで見ていたのだろうか。
 きっと泣いていただろう。
 将臣の心臓は締め付けられたまま、まるで機能しなくなっている。
 男だから泣けない。だが、心は震えている。
 どんな記憶よりも、胸が痛かった。
 将臣は喉にひっかかる熱いものを飲み下すと、大きな深呼吸をする。
「将臣だ」
「将臣さん…?」
 望美の声はあくまで他人行儀だった。
「そうだ、お前の幼なじみの有川将臣だ」
 望美は将臣の顔と、名前を飲み下したが、頭を軽く振る。
 その表情はどこか思い詰めているようにも見えた。唇を噛む横顔がとても綺麗に思える。
「…ごめんなさい…、あなたを思い出せない…。幼なじみって、譲くんと同じ名前だよね…。譲くんと…関係がありますか…?」
 将臣は頭をハンマーで叩かれたような気分になった。
 内臓までもが冷え切って、何も言えなくなる。心臓が変なリズムで鳴り、いきなり軽装で北極にほうり込まれた気分になった。
「譲は覚えているのにか…?」
「…譲くんは…私の掛け替えのない幼なじみだよ…。…たったひとりの」
 望美の言葉に、将臣はこの場で抱きしめて、言い聞かせてやりたくなった。
 自分も幼なじみで、望美とは恋心を確かめ合った仲なのだと。敵同士になったこともあったが、それでも恋をしていたのだと。八葉で、一緒にいたのだと。
 だが言えなかった。
 そんなことを言っても、今の望美には重くのしかかるだけだ。
 きっと望美も同じような気分だったのだろう。だとしたら、将臣も同じだ。
 相手の気持ちを最優先に、傷つけないようにしなければならない。
 たとえ自分がどんなに傷ついたとしても。
 望美はだからこそ、あんなにも辛抱強く待ってくれたのだ。
 心の中には謝罪以外の言葉は見つからなかった。
 どんなに謝っても、たとえどんなに尽くしても、望美には取り返しのつかないことをしてしまったのだ。これでは悔やんでも悔やみきられない。
 将臣は益々自己嫌悪に陥り、胸がキリキリ痛んだ。
「…先生と、ご両親に伝えてくる。お前が目覚めた事を…」
「お願いします、有難う」
 望美は素直に礼を言うと、将臣をじっと見つめる。
「…ホント、譲くんに似ているところがあるね」
 しみじみ呟かれて、将臣は唇を噛んだ。
 将臣は望美の両親と自分の両親に、望美が目覚めたことを伝えた後、ナースステーションに向かった。
 望美が目覚めたことを伝えると、直ぐに医師が呼ばれる。
 医師と一緒に病室に戻る間、将臣は質問を投げ掛けた。
「…先生…、人間って個別に誰かにひとりだけを忘れるってあるのでしょうか?」
「医学的な見地で言うと、有り得ないそうだよ。だけど人間はこころを持っている。余程辛いことを経験した後で…、何等かのショックが加わったら、あるかもしれないが…。まあ、私は専門外なので、全く解らないけれどね。まだまだ医学で解明出来ないことが多いからね、人間は…。学問ではどうにも解らない不思議だらけだよ」
「…そう、ですね。有難うございます」
 確かに、将臣が望美だけを忘れてしまったことも、よくよく思えば、説明なんて出来ない。
 結局は今回のことも、説明なんて出来やしないのだろう。
 将臣は自分で方法を探るしかないと思った。
 医師と病室のドアを開ける。
「春日さん、目を覚まされましたか」
 医師が声をかけると、望美はやんわりと微笑んだ。
「はい、有難うございます」
「彼が血まみれになって運んでくれたんだよ。感謝しないとね」
 医師の言葉に、望美は僅かに微笑みをこぼすと、将臣にぎこちなく頭を下げる。
 まるで出会ったばかりの仲のようだ。
 望美は落ち着きなく医師に視線を投げる。まるで将臣から逃げているようにも見えた。
 望美が医師に診察を受けている間、病室の片隅で将臣はじっと見守るように見つめる。
 医師が丁寧に診察しているのを見ながら、少しだけホッとしていた。
 望美が命の別状なくいることだけで、堪らなく嬉しい。
 だが、ある意味これからのほうが試練になると、肌で感じていた。

「望美!」
「望美ちゃん!」
「先輩!」
 続々と望美の両親や、有川家の人々が病室にやって来て、一気に賑やかになる。
 将臣は、望美が親しげに笑い、楽しくしているのを見つめながら、やり切れない気分になった。
 ふと、じっと見つめている将臣を、望美の瞳が捕らえた。
 澄んだ瞳は将臣を切なそうに映し、清らかに輝いている。
「まあ望美ちゃん、将臣を見るのが癖みたいね。昔から」
「…そうですか?」
 望美は将臣から視線を逸らすと、また笑い出す。まるで将臣だけを記憶の中から追い出すようだった。
「望美ちゃん、学校は、うちのこたちが協力するから、早く良くなってね」
「はい」
「ノートは俺がコピーしてやるから心配すんな」
 将臣がぶっきらぼうに言うと、望美は小さく頷いた。
 面会が終わり、将臣も休息のために、一旦、家に戻ることにする。
「譲、散歩しながら、ゆっくり帰らねぇか?」
「ああ。解ったよ、兄さん」
 ふたりは久しぶりに、肩を並べて歩く。まるで子供の頃のように。
「…譲、今度は逆のことが起こっちまった」
 青い冷たい空に視線を上げながら、将臣は何気なく呟いた。
「…まさか? 先輩は、兄さんのことを忘れてしまったということか!?」
「…そうだ。その代わりに、俺があいつのことを思い出した…」
 将臣は口にするだけで苦々しい気分になりながら、寒々とした青い空を見上げる。
「…因果だな…」
 ぽつりと響く譲の声は重くて、将臣は息苦しさを感じた。苦しい。心も躰も。
「…先輩はさ…、ただ兄さんが生きていたらって思っていたんだよ。兄さんが先輩を庇って茶吉尼天にやられた時、命だけはって祈っていた。 その代償が兄さんの記憶だったんだよ…」
「で、今度は望美の記憶か…。あいつ、俺を庇って車にぶちあたりやがった…」
「…先輩さ、”記憶を無くしてももう一度恋が出来る”って言ってたな…」
 もう一度恋が出来る。
 ならば、将臣が今度は恋が出来るのだ。
 もう一度恋をしよう。
コメント

「迷宮」ED後です。
茶吉尼天によって、望美のことだけを忘れた将臣は?
をテーマにした物語です。





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