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近くて遠いもの。 望美にとってそれは将臣の背中だ。 手を伸ばせば、簡単に手が届くのに、手を伸ばすことなんて出来やしない。 目に見えないヴェールが、望美を拒絶しているように思えた。 溜め息をひとつ吐きながら、将臣の背中から視線を逸らしても上手くいかない。 切ない気分がいっぱいになって、こころのなかで沸騰してしまいそうだ。 望美は日に日に募る恋心をどうして良いのか分からずに、ただ内側に秘めることしか出来なかった。 放課後、掃除が終った後で、望美は教室で数学の課題を解いていた。 授業中に余りにぼんやりとしていたから、時間内に出来なかった。 出来なかった子の殆どは、昼休み中などにやってしまっていたが、望美は昼休みにもぼんやりが抜けずに 出来なくて、結局は今までかかってしまっている。 「何だ、まだやっているのかよ」 掃除当番から帰ってきた将臣が、望美の姿を見るなり、眉を寄せた。 「なかなか気合いが入らなくて出来なかったんだよ」 「…気合いね…」 「まあ、苦手だってこともあるんだけれどね」 望美は舌をペロリとだして笑うと、再び課題に視線を落とした。 ドキドキと緊張でどうにかなってしまいそうになる。 望美は早く側から離れて欲しいと願いながら、課題に取り組むが上手くいかなかった。 「ここ間違ってるぜ。これはこの公式を当てはめたら答えが出る」 将臣は指先で問題を弾きながら、さり気なく望美に教えてくれる。 あからさまに答えを告げるのではなく、ヒントだけだ。あくまでも、自分で考えろというスタンスだ。 「有り難う」 「どういたしまして」 将臣は薄く笑った後、望美と向かい合わせになるような格好で、自分の席に腰を下ろした。 「大丈夫だよ、後はなんとか出来るから」 将臣と酸素を共有する位置にいると、余計に意識をしてしまう。 将臣の空気すらも総て欲しいと望美は思った。 こんなことでは課題は進まないのに、望美の意識や感覚の総てが、将臣に取られてしまう。 「…ここも公式が違う。これもこの公式を当てはめて解いてみろ」 「有り難う」 将臣は微笑みながら望美を見守るように頷いてくれる。 ただ笑っているだけだというのに、望美を幸せにしてくれる。 将臣の笑顔ひとつで、やる気が溢れてくるのが不思議だ。 ふわふわとこのまま幸せに酔い痴れていたい。だがこんな温かな感情は余り長続きはしない。 「将臣!」 将臣の名前を甘さの含んだ声で呼び止める声が聞こえた。 声が聞こえた方向に視線を向けると、そこには険しい顔をした将臣の彼女が立っていた。 ふたりを見つめる視線が非難めいている。 マイナスとプラスが同居する鋭いまなざしが、鋭利なナイフに変わって、望美のこころを傷付けた。 「将臣! 帰るよ!」 明らかに望美への憎悪をたぎらせるようにこちらを見ている。 あんな目で、いくらライバル視をされたとしても、望美はライバルの端にすら引っ掛かる事が出来ないのだ。 「将臣くん、彼女が待っているから行ってあげてよ」 「未だお前の課題が終わってはいねぇだろ?」 将臣は不本意だと言わんばかりに、不機嫌な表情を露骨に浮かべた。 「だけど、とにかく行ってね。後少しだから、本当に大丈夫なんだよ」 将臣の整った眉間に刻み付けながら、あからさまな不快感を示す。 「将臣っ!」 女の子は今にも泣きそうな声で将臣の名前を呼んだ。 これには流石に将臣も立ち上がり、望美をちらりと見た。 「ごめんな。行く」 「いいよ、ひとりで大丈夫だから。将臣くんのお陰で殆ど終らせることが出来たから」 「すまねぇな」 将臣は軽く頭を下げた後、彼女のもとに向かった。 しかし拗ねる態度は直らないようで、将臣の腕を掴むなり、望美を無視して歩いて行く。 「いつも春日さんばっかりなんだから!」 「機嫌直せよ。あいつは俺の最初の友達だって言ってるじゃねぇか…」 将臣が必死になって宥めているのが解る。それ程に大切な相手なのだ。 そう思うと、また、チクチクとこころが痛んだ。 声が聞こえなくなってからも、ふたりの様子をじっと眺めた。 廊下の端でシルエットが重なり、明らかにキスをしているのが解る。 哀し過ぎて涙なんて一滴もこぼれ落ちなかった。 望美が呆れたようにこちらを眺めているのが解る。 こんな情景を見られたくはないのに、益々相手はヒートアップするばかりだ。 「…一番の友達とカノジョが違うところを見せてよ」 「…お前」 我が儘に嫌悪感を感じながらも、それを吐き出せないのは、きっと疚しいからだ。 「お前とあいつの扱いはちゃんと変えているつもりだ」 「変えてないよ! それどころか、春日さんを絶対に大切にしているよ! 私よりね!」 本当にそんなことはないと言っても、今の状態では聞き入れやしないだろう。 将臣は上手い言葉を見つけることが出来なくて、軽く溜め息を吐いた。 「…ねぇ…」 ふと計算付くな小悪魔な表情で、将臣の向こうを見る。 視線のその先にいるのが、望美であることは直ぐに将臣にも解った。 「…じゃあ仲直りのキスをして? ここで」 相手の意図など考えなくても直ぐに解った。将臣は眉間に皺を深く刻んで、目をスッと険悪に細める。 「…解った」 本当は了解などしてはいないし、相手の思い通りになりたくはない。 将臣は腰を屈め、うっとりと目を瞑る彼女に、顔をゆっくりと近付けていく。 だが、唇が触れるか触れないかのギリギリのところまで近付けたところで、顔を離した。 「……!!」 彼女は一瞬何があったのかと、将臣を信じられないようなまなざしで見つめる。 「どうしてよ?」 「これでお前の気持ちは済んだ筈だ。望美は、俺たちがキスをしたって思っただろうからな」 顔色が一瞬にして変わってしまったところを見ると、やはり図星だったのだろうと思った。 将臣は、軽く彼女を睨み付けると、教室へと引き返す。 そこにはもう将臣の鞄があるだけで、望美はもういなかった。 『戸締まりをお願いします』 ただそれだけを残して。 将臣がキスをしているのを見るのがいたたまれなくて、望美は将臣たちとは反対方向の階段を使った。 職員室で課題を渡した後、とぼとぼとひとりで帰路につく。 何を見ても、考えても、あのキスシーンがちらついてしまう。 望美は何度も溜め息を吐きながら、江ノ電に乗り込んだ。 「春日さん、そんなに溜め息ばかりを吐いていると、幸せが逃げていってしまうよ?」 優しく甘い声に顔を上げると、そこにはクラスメイトである男子がいた。 心配そうな顔を払拭させたくて、望美は明るく笑う。 「逃げてしまうほど幸せなんかないよ」 「そうかな。俺にはそうは思えないけど? それに女の子は、明るく笑っていたほうが可愛いよ」 「あ、有り難う」 望美は頬を赤らめながら、じっと相手を見つめた。 望美と同じ電車に乗ったのは本当に偶然だった。 先ほどのことが気まずくて近付けないでいると、爽やかそうな仮面を被ったクラスメイトが近付いたのだ。 遠くにいるから何を話しているかが解らない。ただ望美が顔を赤らめている様子だけが分かり、腹が立ってしょうがなかった。 極楽寺の駅で降りると、望美が将臣の姿を見るなり、少しばかり気まずい表情をした。 「…将臣くん…」 「仲良さそうだったよな」 どうして声にこんなに棘が混じり込むのだろうか。 「仲良しじゃないよ。世間話をしただけだよ」 視線を合わせないままで、望美は咄々と呟いた。 「だが相手はそうは思っていないかもしれねぇぞ。あいつはお前のことが好きなのかもな」 「そんなことないよ。そんな物好きいるわけないよ」 誤魔化すような望美の言葉に、こころのなかで呟く。 物好きならここにいる。 |