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別れた。 事務的な将臣の声がぐるぐると頭のなかを巡る。 「…別れたって…」 煩く響く心音をBGMに、望美は息を飲みながら声を出した。 「言葉の通り」 将臣はショックなどかけらもないようで、意外なぐらいにサバサバしている。 将臣が誰のものでもなくなったことは嬉しいはずなのに、こころに無数の棘があるように思えた。 喜びの裏側には、ひとのこころが傷付いている。それを思うと、胸が締め付けられて苦しかった。 望美が今にも泣きそうな顔をしていると、将臣の大きな手のひらが頭の上に乗っかる。 「お前がそんな顔をしなくても良いんだ。俺は平気だからな」 「カノジョは…?」 きっと平気なんかじゃない。望美が逆の立場だったら、何も手は付かないだろう。 「…心配するな。お前が思ってるほどのことはないから、マジで心配しなくて良いから」 将臣は優しい深みのある笑みを望美に向ける。いつからこんなに甘くて大人びた表情が出来るようになったのだろうか。 「将臣くん」 「心配してくれて有り難うな、望美。お前のこういうところが…」 そこまで言いかけて、将臣は息を呑んでしまった。言葉も一緒に飲み込まれて、将臣が何を言いたかったかが解らない。 「将臣くん、今、何を言いたかったの?」 望美が素直な視線を向けると、将臣は瞳の周りをうっすらと紅に染める。 「良いんだ。ほら、降りるぞ」 「待ってよ!」 将臣が極楽寺駅で降りるのを、望美は追いかけるように降りた。 望美が一歩遅れて歩いていると、将臣は強引とも言える力で、手首を握り、引っ張ってきた。 「早く帰ろうぜ」 「う、うん」 駐輪場まで差し掛かると、将臣は望美の鞄を持ってくれた。 「…ちゃんとけじめをつけてきたから、大丈夫なんだよ」 まるで独り言のように将臣は呟くと、望美と自分の鞄を前カゴに突っ込む。 「これも話し合いの結果なのかもな…」 苦笑いしながら将臣は頬を撫で付ける。 それが痛々しくて、望美のこころはチクチクとした。 「乗れよ」 「うん」 将臣に促されるままに、望美は自転車に乗る。 何だかいつもよりもこころが晴れない。 「…お前もさ、もう無駄な気を遣うこととかしなくて良いから」 「うん」 気を遣っていたというよりは、将臣とカノジョが一緒にいる姿を見たくはなかっただけなのだ。 本当はものすごく我が儘な感情だ。 「将臣くん、痛かった?」 望美は背中ごしに訊いてみた。 「少しな。だが気にならないさ」 「うん、ねぇ将臣くん」 「何だ?」 「もっとちゃんと頬を冷やしてあげれば良かったね」 望美が優しいリズムで呟くと、将臣に優しい『有り難う』の呟きが、こころにしんみりと染みこんでいった。 家の前に来たのに、側を離れたくはなかった。 離れたくないのに家の前にいて、離れなければならないのが疎ましい。 「何ぼんやりしているんだよ。さっきの後遺症か?」 「ち、違うよっ! ま、将臣くんこそ、自転車から降りる気配がないじゃない」 「お前が降りたら、俺も降りる」 「将臣くんが降りたら、私も降りるよ」 お互いに出方を牽制していると、将臣は笑顔を浮かべながら溜め息を吐いた。 「ジュースぐらいならあるぜ。うちに寄っていくか?」 「うん」 隣りだから、幼馴染みだから、今さら離れたくないなんてことはないぐらいの近さなのに、そうはさせないのは、やはり恋心が増しているからだろうか。 将臣にカノジョがいたことで掛かっていた枷が、別れたことで見事なぐらいにきれいさっぱりなくなってしまった。 暴走した恋心が、離れたくないと囁いている。 将臣と一緒に通い馴れた第二の我が家のような有川家に入る。 ふたりでリビングのソヘァに腰を下ろしても、妙に落ち着けなかった。 「カノジョは家に来た事はあるの?」 「ない。俺が女を家に入れるのは、お前だけじゃねぇか? いつも家に連れて行く前に終わってしまうからな」 「そ、そうなんだ」 将臣はモテる。だが長続きはいつもしない。どのような理由かは解らないが、いつもそうなのだ。 「まあ、俺もさ、色々考えてみて、こんなことは止めようと思ってる。結局は、疲れて傷付いて、いつも同じことに気付かされるんだからな」 将臣は自分自身に呆れるかのように溜め息を吐くと、ソファから立ち上がる。 「ねえ、気付くことって何?」 「ジュースを出すのを忘れたな、取ってくる」 「あ、うん」 はぐらかすようにキッチンに行ってしまった将臣の背中を見つめながら、望美もまた溜め息を吐く。 将臣のことが好きなのはもう解っている。 将臣が今は誰のものでもないことも解っている。 折角、タイミングが整ったのに、大切なことを言えない。 望美はそわそわしながら、視線で将臣の背中をまた追いかけていた。 冷蔵庫からジュースを取り出しながら、将臣は溜め息を零す。 ようやく望美に本当の気持ちを告げることが出来るようになったのに、肝心なひとことが出ない。 嘘を吐いて、ずっと偽りのなかにいた自分へのしっぺ返しなのかもしれない。 将臣はふたりぶんのグラスにジュースを注ぐと、緊張しながらリビングへと戻った。 「ジュース」 「有り難う」 あれほど一緒にいたくて離れたくなかったのに、今は何だか居心地が奇妙に悪い。 構えているからだろうか。 「将臣くん、頬はもう平気?」 「大丈夫だ。お前こそ頭は大丈夫なのかよ?」 「うん、すこぶる良好だよ」 「なんだよそれ」 お互いに緊張隠しの渇いた笑い声を浮かべた後、視線を迷走させる。 溜め息が零れそうになった。 今まで幼馴染み相手にこれほど緊張したことはないのに。 「…将臣くん、ジュース飲もうか、喉も渇いたし」 望美はしどろもどろに言いながら、ジュースを口に含んだ。 はにかんだような緊張したような望美の肌が、将臣を誘う。 ほんのりと蒸気した頬に、ドキリとさせられた。 いつの間に、こんなに色気が出てきたのだろうか。 近くにいたから、むしろ近過ぎたからか、今まで気付かなかった。 むしろ気付こうとしなかったのかもしれない。 気付くのがきっと怖かったのだ。 「望美」 「何?」 大きな瞳をくるりとさせた望美は、とても愛らしくて、心臓が暴れ狂ってしまうほどにドキドキする。 「…お前さ、好きなやついるの?」 頬杖をついて、さり気なさを装って呟く。 望美の表情が明らかに変化した。 好きなやつがいるかだなんて、そんな答えは決まっている。 目の前にいるひと。 こんなに分かりやすい態度を示しているのに、どうしても気付いてはくれない。 望美は一瞬、将臣を見つめると、まるで秘め事でもあるかのように直ぐに視線を落とした。 「…いるよ…」 これだけ言うのにも呼吸が速くなる。 「…誰だよ、それ…」 将臣の声が厳しくなる。 まるで嫉妬をしているかのような声の響きに、望美は僅かに希望を持つ。 ひょっとして将臣が好きでいてくれるのではないかと。 だが、なかなか言葉にする勇気が出てこない。 「俺が知っているやつか?」 「そうだね」 まるで命懸けの駆け引きをするかのように、ふたりの視線が重なりあう。 なのに。 あと一言が唇に乗らなかった。 |