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どうしても素直になれない。 将臣に拒絶されたくないから。 将臣と気まずくなりたくないから。 この長い時間、ずっと男だとか女だとか気にしない関係を続けて来た。気にしないというよりは、気にしているのに無視をしていると言うのが、正しかった。 望美は、将臣への想いを飲み干すと、ただ曖昧に笑うことしか出来ない。 「…将臣くんは、好きなひとはいないの?」 暫く将臣は黙り込んでいる。その横顔を見ていると、呼吸のバランスがおかしくなってしまった。 「さあな…」 将臣は曖昧に言うと、望美の視線を無視するように立ち上がった。 「…お前の恋は実ると良いな…」 ポツリと答えた将臣の声がひどく心許無くて、こころごと抱き締めたくなった。 切ない声。こちらの心臓がキュンと音を立てて縮みそうだ。 「…有り難う。だけど恋ってひとりじゃ出来ないからね。何とか素敵な恋が出来るように頑張らないとねー」 望美は誤魔化すように笑うと、立ち上がった。 重い空気にこれ以上はここにはいられない。窒息してしまいそうだから。 「ジュース、ごちそうさま。うちに帰るよ」 望美はなるべくいつも通りに装い、ジュースを飲み終えたグラスをシンクに持っていった。 「あっ、やるから置いておけよ」 「折角、ジュースをご馳走になったんだから、これぐらいはやるって」 「俺が誘ったんだから」 「いいって…あっ!」 ふたりがお互いにグラスに触れ合い、取り合うような形になってしまったからか、グラスが指から離れて、フローリングへと降下した。 鋭い音を立ててグラスが粉々に崩れ去り、望美はこころにかけらが刺さったような痛みを感じた。 まるで自分達の関係を象徴しているかのようだ。 望美はこころの痛みの余り、唇を震わせてしまった。 「…あ、ごめんっ! 片付けるね」 「お前は触るな。直ぐに掃除機を持ってくるから」 将臣は慌てて、納戸にある掃除機を取りに行く。 ひとりになった望美は、大きなかけらを拾おうと、古い新聞紙を広げてそれに大きなガラスのかけらを拾っていった。 「…あっ…っ!」 ピリッとした痛みが指先に走り抜けて、望美は思わず顔をしかめた。 蹲ったまま動けないでいると、将臣が慌ててやってくるのが見えた。 「おいっ! 何をやっているんだよ!」 「…ま、将臣くんっ!」 将臣は慌てて望美のそばで座り込むと、怪我をした手を取った。 「…大丈夫だな…。深い傷にはなっちゃいねぇ…」 「…大丈夫だよ。大袈裟だね、将臣くんは」 ピリピリする痺れた痛みに、瞳にうっすらと涙の膜を張りながら、望美は曖昧に笑った。 「ったく、痛いのにそんな顔をして誤魔化すな」 将臣はいつもより苛々しているように吐き捨てると、怪我をした望美の指先に唇を持っていった。 「…クッ、将臣くんっ!」 瞳に涙を浮かべて顔をしかめる望美を一瞬見つめたあとで、将臣は怪我をした指先を、唇で捕らえて吸い上げる。 痛みと同じリズムで、心臓が激しく跳ね上がる。喉の奥がからからでたまらなくて、躰中が熱くて堪らなくてしょうがなかった。 躰中のほてった血液の殆どを吸い上げられるような感覚に、望美は頭がくらくらするのを感じる。 何度も浅い呼吸を繰り返した。 全身の総てが。いや、今まで知らなかった未知の部分までもが将臣を求めている。 細胞が沸騰して、頭のどこもかしこもおかしくなってしまいそうだった。 自分達がいる空間が、どこか別の場所に放り込まれたような感じがする。 そこには吸う空気なんて遺されてはいないような気がした。 まともに将臣の顔を見られるはずもなくて、視線を泳がせる。 なのに将臣の視線は、そんなことを許さないかのように追いかけて来た。 なんて深みのあるまなざしで、色があるのだろうか。 ドキドキし過ぎて貧血を起こしそうになっていた。 もうこれ以上は耐えられなくて、望美は唇を震わせた。 「…将臣くん、もう大丈夫だよ…」 震える声で呟くと、将臣はまるで面白ろがるような視線を向けて来た。 その瞳は男のものだった。しかも経験値が高い男のそれだ。 いつの間にかこんなにも大人の男になってしまったのだろうか。 寂しさと嬉しさが交差をして、望美は複雑な気分にになっていた。 「…あっ…!」 指先が更に強く吸い上げられて、望美は自分でも信じられないほどに女の声を上げていた。 「…大したことはねぇみたいだから…、後は消毒して絆創膏でも貼っておいたら治るだろう」 「うん、有り難う」 指先がジンジンしたが、それが怪我をしたことによる痛みか、将臣に唇で吸い上げられたからか、全く分からなかった。 将臣の唇がそっと離れる。 すると痛みがリアルなまでに躰に響き渡り、思わず顔をしかめた。 「…このまま待ってろ」 「うん」 将臣は直ぐに救急箱を持ってきてくれて、今度はきちんとした手当てをしてくれた。 しかし望美のこころや肌は、将臣に指先を吸われた感覚がリフレインして、何時まで経ってもドキドキは収まることがなかった。 「折角のグラス、台無しにしちゃったね」 「形あるものは壊れるのが宿命みてぇなもんだから、あんまり気にするな」 「…うん、そうだね」 望美は静かに答えながら、では形のないものは壊れないのかなどとぼんやりと考えた。 形のないもの。 人と人の関係が一番分かり易い。 一度結ばれた絆は固いかと言われると、否定せざるをえない。 見えないからこそ壊れやすいような気にもなり、また永遠に壊れないような気にもなる。 だからこそひとは形にしたいなどと考えるのかもしれないが。 「どうしたんだよ?」 「目に見えない形のないものも、壊れやすいなって思っていただけだよ…。形のあるものは、不注意じゃなければ壊れないでしょ? だけど形のないものは不注意じゃなくても、どうにもならなくて壊れてしまうこともあるなって、考えてた」 将臣が視線の動きを止める。 「…そうだな。逆に壊れやすいのかもしれねぇな。だからこそ必死になって守りたくて、大きな一歩を踏み出せないのかもしれねぇな…」 「そうだね」 望美は自分達も同じだと感じていた。 とても強固に見える幼馴染みの絆。 だが本当はとても脆くて、繊細なものだということを、当の自分達が一番解っている。 だからこそなかなか次の一手に進むことが出来ない。 いつかは消えるかもしれない幼馴染みの絆。 それをより確かなものにするには、今の関係を破壊してしまうしかない。 解っている。 充分過ぎるぐらいに解っている。 もし上手くいかなくて、自分達がこの先ずっとギクシャクしてしまったら、いちるの希望さえも消え去ってしまう ような気がして、勇気を掻き集めることなんて、到底出来そうにもなかった。 何時からこんなに意気地無しになってしまったのだろうか。 何時から勇気を持つことが出来なくなってしまったのだろうか。 望美は指先を震わせているくせに、誤魔化すように笑った。 曖昧にことを済ませようとするのは、全く悪いくせだと思う。 だが、これ以上ここにいると、禁断の言葉を言ってしまいそうで、怖かった。 望美は逃げるように口を開く。 「…あ、有り難う、手当てをしてくれて…」 「ああ」 「う、うちに帰るね」 言葉を吃らせながら立ち上がろうとすると、将臣に腕を取られた。 「待てよ。俺から話がある」 緊張が全身に走り抜けて、まるでロボットのように曖昧に頷いた。 |