8月3日
昨日のキスはきっと気まぐれ。そんなことぐらい、理性では解っているのに、気持ちは解ってはくれない。 望美は指先で羽根のように唇に触れた。 恋人同士のキスではなく。触れるだけのキス。 それでも望美にとってはロマンティックなキスで、胸の奥がとろとろにとけてしまいそうなものだった。 今日は朝からアルバイトだという将臣とは、一緒に遊ぶことはないが、今日も声をかけてほしいと思った。 母親とダイニングでかき氷を食べていると、含み笑いを向けられる。母親の表情は、まるで秘密を知ってほくそ笑んでいる女子高生のようだ。 「有川さんも一緒に、かき氷食べるって言ってたのよね」 母親が言ったところで、玄関先のチャイムが鳴り響いた。 「こんにちはー」 「あ、入ってちょうだい!」 母親はいそいそと友人である有川兄弟の母親を迎えに行った。 三人でおやつを食べるのはいつものことなので、望美は特に何も思わない。 「望美ちゃん、こんにちは」 「こんにちは」 望美の母親の横に座ると、ふたりの母親はニヤニヤと望美を見つめる。 「ねぇ望美ちゃん、将臣と付き合っているの?」 いきなり切り込むように言われて、望美はかき氷を吹き出してしまった。 「あ、あの…」 「あなたたちが仲良く手を繋いでいるのを見ているひとが何人もいるのよね。ね、やっぱり付き合っている!?」 ふたりは、望美と将臣の交際を咎めることはなく、むしろそうなっていたら嬉しいような表情を伺わせている。 ふたりが、自分たちの子供が結婚すれば良いと思っていることを、望美は識っていたるせいか、言葉を濁すことしかできない。 「…と、友達の延長だし…」 望美がしどろもどろと言っていると、母親たちが更に愉しそうに笑っている。きっとただ照れていると思っているのだろう。そこが始末を終えない。 「照れなくていいのよ。あなたたちが付き合っていたら、私たちも嬉しいなって思っているだけだし。だから正直に言えばいいのよ。付き合っていたら、熱烈応援するし」 ニコニコ笑う将臣の母親に、望美はどう対応していいかが解らない。 まさか、将臣のバースデーまで限定の恋人同士だとは、望美は言えなかった。 「…と、友達だから手を繋いだだけだし…」 「幼稚園じゃないんだし。あなたたちが凄く仲良くしているって聞いたわよ。ふたりとも恋する雰囲気だったって」 望美は頭が痛くなった。町内スピーカーの女性に見られてしまったことが、まずかったらしい。だが、後の祭りだ。 望美としてはそうなっても構わないが、将臣はどうなのだろうか。きっと母親たちの思惑には乗りたくないと思うに違いない。 だからこそ、母親たちの暴走する気持ちにブレーキをかけなければならない。 「あ、あのね!」 反論をしようとしたが、言葉が上手く出てこなかった。 良いタイミングなのか悪いタイミングなのか、玄関のチャイムが鳴る。 望美がインターホンに出ると、そこには将臣が立っていた。 最悪のタイミングだ。 「やっぱり! 将臣じゃないっ!」 将臣の母親は直ぐに玄関に走っていき、その後を望美の母親が続く。望美はしんがりと言ったところだろうか。 玄関が開き、ふたりの母親が嬉しそうに笑っているのを見るなり、将臣は困ったような視線を向けた。 望美も同じような複雑な視線を向けると、将臣は突如その腕を取った。 「行くぞ」 「あ、将臣くん…!」 望美はバランスを崩しながら何とかミュールを履くと、そのまま将臣に連れ出されてしまう。 家が見えなくなるまで走った後、ようやく立ち止まった。 「母さんたちも早速聞きつけたのかよ」 「みたいだね。ふたり揃って攻めてくるから大変だったんだよ」 「そりゃそうだろうな」 将臣は望美の手を握り直しながら、微苦笑をした。 汗が掌に滲んでいるのに、何故だか気持ちが良い。 緊張したお姫様が、王子様に手を取られたときは、こんなに気持ちが良かったのだろうか。 「これじゃあ、駆け落ちみてぇだよな。今頃あの二人、手を取り合って喜んでいるぜ」 「そ、そうだね」 駆け落ち。 ドラマティックな恋の響きに、望美は喉がからからになるぐらいに渇く。 横に涼しげに立っている幼なじみを見ているだけで、心臓がボールのように烈しく跳ねた。 「じゃあ駆け落ちするか。とりあえずは長谷まで」 「ちかすぎるよ」 望美がころころと鈴の音を響かせるように笑うと、将臣もまた笑う。 黒いノースリーブのシャツが、筋肉が付いて盛り上がる胸を強調していて、意識をする余りに躰が熱くなる。 「まあ、母さんたちには夢を見させておいてやるか」 将臣の言葉に、望美はドキリとした。それはいつまでのことなのだろうか。 将臣のバースデーまで? それとも…。 その先までも望む自分が、切ない。 きっと将臣はそこまでは許してくれないような気がしたから。 望美が急に黙り込むと、将臣は顔を覗きこんできた。 「どうしたんだよ」 よく響く低い声に、望美は寂しそうに笑う。すると一瞬、将臣が浅く息を呑んだように思えた。 「マジ、どうした」 先ほどよりも低いのに、愛撫をするかのような優しい声が聞こえる。 心がリズミカルに揺れる。 「…さっきかき氷が食べかけだったなって…、思っただけだよ…」 ごまかすには、余りにも深刻な声色だった。沈んだ鉛色のように華やかさをなくしている。 「だったらお前の好きな甘味でも食いに行くか」 「うん。宇治ミルク金時が食べたい」 「お前現金すぎ」 将臣は望美を護るように引き寄せると、そのまま望美を導くように歩いていく。 蝉時雨が時間の流れを表すように流れ、ふたりがもう子供でないことを意識させる。 小さな頃、同じ道を歩いていても、ただ愉しかった。 今は甘い緊張と切なさだけが遺る。 長谷の門前町にある老舗の甘味処の暖簾をふたりはくぐった。 「ここの宇治ミルク金時は最高何だよね」 「甘そうだな。俺はところてんにでもしとく」 「美味しいのに」 ふたりがけの席に向かい合わせで座る。 甘味処というのは、椅子や机がクラシカルで、少し小さめに出来ている。当然、将臣にはかなり小さかった。 将臣の筋肉がしっかりと付いた脚が、望美の柔らかく細い脚にぶつかる。 異性の逞しさを脚から感じて、望美は心を切なく震わせた。 「あっ」 自分の声だとは思えない甘えた声に、望美は恥ずかしくて俯いてしまう。 「ごめん」 「いいよ、大丈夫」 望美は笑って言ったものの、それから言葉が全く続かない。 ふたりは意識をし過ぎる余りに、思わず黙り込んでしまった。 注文の品が小さな机に並び、ふたりは黙々と食べる。 望美は将臣ばかりを見てしまい、味なんて全く感じられなかった。 「おい」 「何?」 声をかけられた瞬間、望美は顔を上げる。 「小豆が付いてるぜ?」 「う、ウソッ!」 望美が慌てふためきながら指を唇に伸ばそうとすると、将臣が何の前触れもなく近づいてくる。 将臣の唇は、望美の口角に付いた小豆を吸い上げると、氷でひんやりとした唇を掠めてくる。 キスなのかそれとも戯れなのか。 将臣が離れ、望美はただその顔を見つめる。 「ごちそうさん」 「バカ…」 恋人ごっこ三日目は甘い空気に苦しめられる。 |