8月8日
毎日のように甘いキスをしていれば、誰もが夢見るだろう。 彼女にしてもらえるかもしれないと。 実際には、期間限定といえども、望美は将臣の彼女だった。 だからこそ、その先を思うと、胸の奥が切なく痛い。 キスをして、抱き合って…。流石に最後の一線を越えていない以上は、恋人だとは胸を張って言えないかもしれなかった。 躰で愛し合う。 それは望美にとってはとてつもないハードルだ。 その後のことばかりを考えてしまい、上手く踏み出すことが出来ない。 傷ついたら? ちゃんと彼女にしてもらえなかったら? そんなことばかりが頭の中でぐるぐると回っていた。 今日は朝から将臣に逢っていない。 以前なら少しぐらい会えなくても平気だったのに、今は顔を見ないだけで辛かった。 「将臣くんに今日は会えるのかな…」 望美はぽつりと囁くと、膝を抱えた。 誰かに逢いたいと餓えたことなど今までなかったのに、今や朝から将臣を見ないというだけで、こんなに暗い気分になる。 何時までもうだうだとするわけにはいかなかったので、望美は気を紛らわせるために、鎌倉駅前に出ることにした。 鎌倉カスターとチョコレートを買いに行くという建前を持って。 電車に乗っても、考えるのは将臣ばかりだ。 鎌倉駅の周りで、伝統的なスウィーツを買う。甘味で将臣のことを一時的に考えなくて済むようにするためだ。 「今夜は会えるかな…」 ぶらぶらしていると、望美は見慣れた人影を見掛けた。 目を凝らして見ると、将臣が楽しげに歩いているのを認めた。 横には夏色の可愛い女性が一緒に歩いている。 きらきら輝いている彼女は、望美たちより年上に見えた。 可愛いらしさと大人っぽさが同居する、とても魅力的に見える。 「…将臣くん…」 将臣は優しい眼差しを女性に向け、彼女もまた熱い視線で見つめている。 どこから見ても、ふたりは好ましい恋人同士に見えた。 ふたりが仲良く歩いているのを見送った後、望美は俯きながら歩き始めた。人生を謳歌するように歩いていた将臣たちとは正反対だ。 電車にも乗らず、望美はただ家まで歩き始める。 暑いのに、呼吸をするのも辛いぐらいに切ないのに、望美は歩くしかなかった。 極楽寺まで来ると、熱くて何も考えられないぐらいに、ふらふらしていた。 「…将臣くん…」 もう期間限定の恋人はいらなくなったのだろうか。 望美はふらふらと脚を縺れさせながら、玄関先に倒れこんだ。 「望美!」 母親がバタバタと玄関に来てくれなかったら、きっと行き倒れのようになっていただろう。 「どうしたの! 熱中症だわね! 直ぐに部屋を涼しくするからね! 待っていなさいよ!」 母親に連れられて部屋にたどり着き、ベッドに寝かされる。 空調を入れてくれたので、少しは気分がマシになる。 「楽な恰好をしなさい。水分を取るのよ! 後ね、気分がマシになったら、シャワーを浴びなさい」 母親はパタパタと望美のために動いてくれ、それが望美には嬉しかった。 水分を取ると、望美はタオルケットを頭からかぶって目を閉じた。 ひとりになると自然と涙が溢れてしまう。 将臣の楽しげな横顔が、脳裏に焼き付いて離れない。考えるだけで泣きたくなった。 頭がガンガンとして、戻しそうになるぐらいに気分が悪い。 望美は心の痛さと気分の悪さで、唸りながら何度も寝返りをうった。 夕方になると少し気分がマシになり、冷たいシャワーを浴びた。 だがそれでも食欲はなく、望美は部屋に篭ったまま眠り続けた。 うとうとしていると、玄関先が騒がしい気配で目が覚めた。 ふたつの足音が階段に響き渡る。 ひとつは母親。もうひとつは考えなくても解っている。 将臣しかいない。 ノックの音が響いて、望美は躰を小さくさせる。 「望美、将臣くんが来てくれたわよ」 「…気分が悪いの…」 今はとても会えるような状態ではなく、望美はいじけてタオルケットを被ったまま、蓑虫のように丸くなった。 「しょうがないわね。顔だけ出して挨拶だけしなさい。元気になるわよ」 「…元気になんかならない…」 いじけて手が付けられない子供のように呟くと、望美は益々頑なになった。 「入るわよ」 母親は強引にドアを開けると、ベッドに近づいてくる。蓑虫望美のタオルケットを半分外してしまった。 「お礼だけでも言いなさい」 母親に諭されて、望美はむくむくと起き上がる。 「ふたりでゆっくりね」 母親は捨て台詞のように言い残し、望美の部屋から出て行ってしまった。 「望美、大丈夫かよ。気分が悪いなら、俺はこれで帰るけれど」 恋する心は本当にあまのじゃくだ。 離れて欲しいのに、離れて欲しくない。 こんなことは狡いと自分で一番良く解っているというのに、甘えてしまう。 望美は躰を起こすと、うなだれたまま、将臣の顔をまともに見ることは出来なかった。 「…だって、今日は暑くて、折角、買った、鎌倉カスターもチョコレートもみんなどろどろになっちゃって食べられなかったんだよ…」 「この暑さじゃな。だけどカスターとチョコレートは買ってきたから心配するな。今日は鎌倉に用事があったからな、お前の好きなチョコレートと鎌倉カスターをちゃんと買ってきた。お見舞いだ」 将臣は、冷たく冷えた鎌倉カスターと、望美がお気に入りのショコラティエで買ったチョコレートの詰め合わせを差し出した。 「…有り難う」 「カスターは今日中に食わないとダメだからな。ほら、食えよ」 「有り難う」 望美は素直にカスターを受け取ると、まるでコリスのように啄む。 将臣の優しい笑顔と、甘い誘惑には勝てるはずもなかった。 静かにカスターを食べる望美を、将臣は見守ってくれる。 瞳から零れ落ちる光が、余りにも切なかったから。温かくて優しい粒だったから、望美は泣きそうになった。 ひとりの女としてではなく、将臣は小さな幼なじみとして望美を見つめてくれている。 一番欲しい光を大好きなひとがくれないのは、きっと別の女性が好きだからだろう。 「…将臣くん…」 望美は背筋を伸ばすと、幼なじみを真っ直ぐ見つめる。 将臣にとっても望美にとっても、きっとこれが最善だろう。 「…もう、彼女のふりは出来ないよ」 静かに望美は呟き、将臣を見つめる。 途端に、将臣の表情が険しいものに変わった。今までで一番、眉間にシワが刻まれている。 「…契約違反だろ、それ」 「…うん、だけど、ね。将臣くんには、ちゃんと彼女をしてくれるひとがいるでしょ? だから…」 「だから?」 「私なんか必要じゃないよ」 望美は早口でまくしたてると、ただ俯く。 沈黙がふたりを覆いつくす。 「解った」 将臣は静かに立ち上がると、部屋を出ていく。その声は氷のように冷たかった。 |