8月9日
期間限定の恋人ではなくなった途端に、望美の生活は色を失った。 それほどまでに、将臣の存在が大きいものであることを、望美は気付かされた。 モノクロームの世界に、今はただ生きていくだけだ。 「望美、今日は将臣くんと出掛けないの?」 母親の何気ない一言が、今の望美には辛くてしょうがない。 「出掛けないよ、もう…。将臣くんも、私も、夏の気まぐれだったんじゃないかな」 母親はがっくりと肩を落とすと、どこか切なそうに溜め息をついた。 本当は溜め息をつきたいし、泣きたいのは山々だが、望美はそれをぐっと堪える。 元々、将臣は他の女性のものだったのだ。 きっとそのひとを護るために、望美に期間限定の恋人を頼んだのだろう。 望美はそんな考えに達し、諦めようと懸命になっていた。 だが、あの数々のキスの意味も、今は解らない。 甘くてとろけそうなキスに、望美は愛されていると確信していた。だが今は、その考えも甘かったことを悟っている。 「…将臣くん…」 もう少しだけ、偽物の恋人同士の地位に縋り付いておけば良かったのだろうか。 だがそれをすればするほど、情けなくなる。 望美は部屋に引きこもったまま、何もすることが出来ずに、ただ膝を抱えていた。 流石に夕方になると、母親の手伝いをする。まるで心を失ったロボットのように、手を動かしていただけだった。 味気ない夕食を取っていると、インターフォンが鳴る。 ドキリとして、胸の奥が軋むように痛む。 期待している自分と、暗い気分に沈んでいる自分がいる。 望美がのろのろと玄関先に出ると、将臣が立っていた。 「ほらよ」 何時もと変わらない態度でいきなり渡されたのは、鎌倉カスターの詰め合わせ。 「有り難う」 「なあ、散歩に行かないか。幼なじみとして」 最後の一言が胸に突き刺さる。 痛すぎて立っていられないくせに、行きたいと思う自分がいる。 「カスター置いて来るから待っていてよ」 「ああ。そこから二個だけ出してくれよ。ふたりで食おうぜ」 「うん」 望美はカスターを二個だけ将臣に預けると、冷蔵庫に片付けにいった。 「お待たせ」 「行くか」 望美はミュールを履くと、将臣の横をぶらぶらと歩き始めた。 湿気を含んだ風は、幾分か涼しくなっており、望美は夏に忍び寄る秋を感じていた。 秋になれば、自分たちはどうなっているのだろうか。 きっとただの幼なじみになっているに違いない。 挨拶を交わす程度の冷たい関係になっているのかもしれない。 「やっぱり夜は気持ちが良いよね」 「そうだな…」 将臣は寂しそうに笑うと、夜空を見上げる。 ただ横を歩く。つい一昨日までのように、ふたりの手がしっかりと繋がることはない。 今のぎこちなさを表していた。 将臣のオスとしての熱を近くに感じながら、意識しているのに、意識しないように振る舞う。 そうすればするほど、望美は余計に鼓動が激しくなるような気がした。 揺れるお互いの指先が触れ合い、そこが化学変化を起こしたように電流が走り抜けた。 飛び上がるように肌を震わせると、望美は心許なくて俯く。 もう一度指先が触れ合う。 すると将臣は望美の指を強引に握り締めた。 「ぶらぶらしているより、このほうがいいだろ」 「有り難う」 またしっかりと指を結ばれる。はたから見たら、きっと深く恋をしあった恋人同士に見えるだろう。 お互いの熱だけを感じながら、ふたりは空を真っ直ぐに見上げた。 「…望美、お前、好きなヤツっているのか?」 さりげなくきいているように響いたが、将臣の声はどこか深い艶がある。 声に、食い込む指の熱に、鼓動を激しくさせながら、渇いた唇を舌で湿らせる。 「…どうしてそんなことをきくの?」 「…お前が恋人のふりを解消しようだなんて言うから」 まるで欲しいものを取り上げられた子供のように言う将臣に、望美は甘く緊張し過ぎて生唾を呑んだ。 「…将臣くんが本当に好きなひとに迷惑だって思ったんだよ。それだけ…」 望美はさらりと交わしたつもりでいたが、それでは幼なじみは納得しないようだった。 「俺が好きな女に迷惑は…」 そこまで言って口ごもる。 好きな女。 全身に動揺が広がり、望美は唇を震わせる。暗闇で顔色が変わったのが見られないのが、唯一の救いだ。 「…好きなひといるんだ…」 「まあな。俺が好きな女がいて悪いかよ」 いらだたしいのか、将臣の声が暗くなる。 「…悪くないけれど…」 「俺の好きな女はある意味迷惑である意味迷惑じゃねぇかもな」 将臣はまるで謎々を出すように言うと、薄く笑う。外灯に照らされた横顔は、信じられないぐらいに魅力的だった。 「…将臣くんが好きなひとって、ひょっとして…昨日、鎌倉駅の近くで一緒にいたひと?」 望美は探るような視線を向けながらも、将臣にはストレートにきいてみる。 将臣は一瞬、ハッとしたのか瞳を大きく開いたが、次には笑顔になっていた。 「あいつは違う」 キッパリと言い切ると、将臣は望美の手を握り直す。まるで所有をしめすかのように、力を強く入れて来た。 「お前見たのか」 「鎌倉カスター買いに行ったついでに」 「でチョコレートも一緒に買って、両方とも暑さでどろどろにしたか。ついでにお前もどろどろになっていたよな」 将臣は含み笑いを唇に浮かべながら、望美をからかうように見ている。 「いいじゃない、もう」 これ以上詮索をされたら、将臣が好きなことがばれてしまう。望美はクールに装った。 「望美、恋人、続けねぇか?」 恋人を続ける。それはきっと切ない期間限定の恋人をだろう。 「契約だから、逃れられないだろ? お前は」 契約なんて交わした覚えはないと思いながらも、こうして将臣の傍にいるのは嬉しい。 「…私以外の誰とも手を繋いだり、キスをしなかったらいいよ」 これだけは譲れない。 例え仮の恋人同士だとしても、そんなことは容認出来ない。 「いいぜ。お前がそれで納得出来るんなら、俺は」 将臣は悩むことなどまるでなく、直ぐに頷いてくれる。 本来なら嬉しい誓いだろうが、望美は複雑な気分になる。 それはきっと、期間限定だから出来るのだろうから。 「じゃあ成立。誕生日、最高のものにしてくれよ」 「うん」 将臣の横顔がゆっくりと近づいてくる。 望美が大好きな横顔だ。 角度を変えると、将臣は深く口づけてくる。 舌を深く入れられ、唇を強く吸われ。ママゴトのキスではない熱くて甘いものだった。 将臣は筋肉で締まった太い腕で望美を抱き寄せると、もう離さないとばかりに口づけてくる。 こんなに密着したのは初めてだった。 |