Piano Lesson

9th Lesson


 流石は有名ピアニストだからか、住んでいるところは、北鎌倉の高級住宅街だった。
 望美はプレゼントの”ジッポ”のライターと、何よりも真剣にピアノに取り組んだ成果を見せるために、知盛の家に向かって歩いていく。
 白い壁が印象的な、クラシカルな洋館が視界に入ってきた。
 年代ものではあるが、造りはしっかりとしている上に、どこかロマンティックだ。
 立派な門の前まで来ると、望美は表札を見て、息を呑んだ。
 確かに「平」と書かれている。番地を照合すると、見事に合致していた。
「…凄いよ…。スタンウェイに相応しいお屋敷だよ…。これは…」
 望美は武者震いを感じながら、震える指でインターフォンを鳴らした。
「はい?」
「あ、あの春日望美です」
「ああ、入って来いよ…。門を開けてやる」
 門扉が開き、そこから知盛が姿を現す。相変わらずのけだるい艶やかさを身に纏っていた。
「入れよ…」
「はい」
 望美は恐縮しながら、知盛の後ろを着いていく。
 こんな屋敷に住むことが出来るなんて、余程の金持ちなのだろう。
 そうすると益々解らなくなる。
 こんなにお金持ちならば、鎌倉の小さな音楽教室で教えるなんて、益々必要がなくなる。
「…ちもちゃん先生、凄い屋敷に住んでいるんだね」
「あ? 親の持ち物だからな…。特に俺には関係ない…」
 さらりと言うところが、また憎らしい。
 屋敷は、きっと大正時代あたりに建てられたのだろう。細々としたところが、とても優美だ。またそれに知盛が似合っているから憎らしい。
 大きな窓から差し込む光は、とてもロマンティックだ。
 光を浴びる知盛が王子様に見えるのが憎らしい。
 ドキドキして、喉がからからに渇いた。
「さて…、ピアノがあるのはこちらだ…」
「はい」
 木で出来た白い扉には細工が施されており、とても綺麗だ。
 望美がゆっくりと中に入ると、まるで映画のセットのようだ。
 無駄なものなどなく、使われた味のあるフローリングの上には、スタンウェイのグランドピアノが置かれているだけ。
 部屋はとても開放的で、吹き抜けになっており、天井がとても高かった。窓は高い位置に長く大きなものがあり、そこから見事なぐらいに素晴らしい光が注ぎ込まれていた。部屋の端には暖炉まである。
「…さあ、お嬢さん…、リサイタルを開いてもらいましょうか…」
 スタンウェイの鍵盤を指で弾くと、知盛はピアノの前に腰を下ろした。
「…ほら、どうぞ…、お嬢さん…」
「う、うんっ…」
 望美は喉を鳴らすと、緊張しながらピアノの前に腰を下ろした。
「…さあ、春日望美さん…、素晴らしい演奏を聴かせてくれるんだろう…?」
 知盛のゆったりとした拍手が、部屋の中に響く。
 望美は余計に緊張してしまい、ピアノの前で固まってしまった。
「…何よりものバースデープレゼントになるはずだ…。お前のど下手なピアノでもな…」
 くつくつと笑いながら煙草を吸う目の前の男が気に入らない。
 緊張というよりは、怒りが大きくなった。
「…じゃあ弾きます。笑わないでよ、ちもちゃん」
「さあな…」
 知盛はゆったりと煙草を吸いながら、望美を可笑しそうに見ている。
 あんなにからかうような瞳を見ていると、余計に腹が立ってきた。
「…さて…、お願いします…」
 知盛の拍手が響き、望美は覚悟を決めて背筋を伸ばした。
 先ずはスタンダードな”HAPPY BIRTHDAY”から。シンプルだから難しい。
 緊張で指先が震える。
 息を詰まらせながら弾いていると、本当に苦しくなってきた。
 ちらりと知盛を見ると、僅かに眉を上げ、じっと目を閉じて聴いている。
 望美は益々不安になった。
 不意に知盛の声が響く。
「…いつも通りに弾けばいい…」
 低い声が、まるでコンサートホールのような部屋に響き、望美の心にすんなりと下りて来た。
 不思議なことに、緊張が解き放たれて、どこかふわふわしたような気分になる。
 指も何時ものように動くようになっていた。
 ”HAPPY BIRTHDAY”の次は、”カノン”。
 望美が大好きな曲だが、かなり難しい。
 神妙な顔をして鍵盤に指を下ろすと、静かにメロディを奏で始めた。
 せめて知盛の心に浸透するような音を届けたい。折角のバースデーなのだから。
 知盛は相変わらず目を閉じていたが、静かに聴いてくれているのを感じた。
 ”カノン”を弾き終わると、流石に妙な汗が背中に流れ落ちる。
 知盛の反応は全くない。その姿は、嵐の前の静けさをたたえているようにも思えた。
 望美は大きく深呼吸をすると、いよいよ大仕事にとりかかる。
 スティービー・ワンダーの”HAPPY BIRTHDAY”が、一番難しいナンバーだった。
 聴いたことがないうえに、ただ楽譜だけで弾かなければならないナンバー。
 望美の能力だと、リズムを何とか読み取るのが精一杯だった。
 鍵盤に指を滑らせて、いよいよ奏で始める。
 誕生日を祝う軽快なナンバーは、望美をご機嫌な気分にさせてくれる。
 望美は何時しか楽しさに巻き込まれて笑いながらピアノを弾いていた。
 ピアノを弾き終えると、後は清々しい汗が残るだけだ。
 望美が弾き終えた後、知盛は静かだった。
 雑音等何も入らないせいか、静まりかえった静けさが逆に不気味だ。
 不安になる。
 このまま叱責をされてしまうのではないかと考えてしまったり、あるいは黙って部屋から出ていかれるのではないかと思ってみたり。
 静まりかえっていたのは、ほんの僅かな時間だったというのに、望美には永遠と思えるぐらいの時間に思え、暗い気分になっていた。
 暫くして、知盛が大きな拍手をしてくれた。
 力強い拍手に、望美の表情は晴天よりも更に明るく晴れ上がった。
「…よく、頑張った…。良い誕生日プレゼントだ…」
 知盛は望美の傍に来ると、とても優しい瞳で見つめてくれる。
 その瞳に吸い込まれそうになり、望美は動けなくなった。
「…良い演奏と、巧いは…、必ずしも…合致…しないからな…」
 薄く笑いながら、知盛は釘を刺すのも、勿論、忘れてはいない。
「折角、良い気分になったのに、ちもちゃんてばぶち壊し!」
 にんまりと笑うことを止められなくて、拗ねた顔をしても全く効力なんてなかった。
 それでも拗ねると、知盛は笑う。
「…嘘はつけないたちなんでな…」
「そこが嫌いよ」
 ご機嫌のように、知盛はくつくつと笑うだけだ。
 こんなにもよく笑い、機嫌が良さそうな知盛を望美は初めて見たかもしれない。
「…御礼をしてよ」
「お返しか…? そうだな…」
 知盛は望美の目線に躰を屈めてくる。
 次の瞬間、甘くて少し煙草の匂いがするキスが下りて来た。
 ロマンティックな午後の光がふたりを包み、まるで祝福されているような気分を味わえた。




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