4
目の前にあるアリオスの胸が余りに広くて、安心出来そうだったから、アンジェリークはそれにしがみついた。 広くて白い胸。 微かに香る大人の男性特有の香り。 それらのどれをとっても”男性”を感じるはずなのに、アリオスだけは不思議と恐くはなかった。 「少し編集部でゆっくりしろ…。ここじゃ…何だからな…」 アリオスに言われて、アンジェリークはしゃっくりをしながら頷く。確かに、街のど真ん中でいつまでもこうしているわけにはいかない。 「行こう」 「はい…」 アリオスに手を握られても、決して不快には感じない。 アリオスさんも男性なのに…。恐くない、不思議…。 アンジェリークはまるで子供のようにアリオスに手を引かれて、出版社に戻った。 そのまま編集部にあるパテーションの中ではなく、小さな会議室に連れていってくれる。このような配慮も、アンジェリークは嬉しかった。 椅子に腰をかけると、かなり安心する。 アリオスが静かに部屋から出て行ったが、不思議とほっとすることはなかった。いつもなら男性のいる空間だと思うだけで、切なく息苦しく感じるのに、アリオスが去った白い空間は、ただ寂しさを感じるだけだった。 暫くしてドアが開き、アリオスが中に入ってくる。正直、安堵すら感じていた。 「…ほら、飲めよ」 アリオスが差し出してくれたのは、紙コップに入ったミルクティ。今のアンジェリークには必要なもののように思えた。 「有り難う…」 アリオスは少しだけ距離を置いて、席に座ってくれる。仕種や心遣いはどれもさりげなく、大人だった。 好みのミルクティであるのも嬉しい。 ミルクティのほわほわとした温かさは、アンジェリークの心をやんわりと慰めてくれる。 少しずつだが、落ち着きを取り戻してきつつあった。 アリオスをちらりと見ると、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいる。 ただそこにいるだけなのに、アンジェリークはひどく安心感を覚えた。 男性で一緒にいられるのは、数えるほど。編集長のルヴァ、父親、そしてアリオスだけだ。 彼は、対面から間もないというのに、アンジェリークのテリトリーにいとも簡単に侵入してきていた。 それがアンジェリーク自身でもかなり快挙だと感じずにはいられなかった。 深呼吸をして、お茶を飲むと、だんだんと落ち着いてくるのが解る。 アンジェリークはようやく、口を開くことが出来た。 「すみませんでした…。ご迷惑をおかけして…。あんなに取り乱すつもりはなかったんですが…」 「気にするな」 アリオスはきっぱりと言うと、それ以上は何も言わない。ただ、黙って煙草を吸うだけだ。 何か尋ねられるかと思っていたアンジェリークには、新鮮な驚き以外の何物でもなかった。こんな反応をして、理由を聞かない男性はアリオスが初めてだった。 「……何も聞かないんですか…?」 アリオスはふとアンジェリークに視線を向けてくる。僅かに優しさが眼差しから滲み出ている。 「聞いてどうなる?」 「え…?」 「おまえの状態がこんな以上は聞く気はねえ。それでスッキリするんなら聞くが、今はそうじゃねえだろ?」 アンジェリークはゆっくりとアリオスに頷く。きっと話せば、心の傷がえぐられるような痛みを伴うだろうから。 「おまえが話せるようになった時で構わねえさ」 「…有り難う…」 何も聞かずに、ただ落ち着かせてくれたアリオスに感謝しながら、アンジェリークはミルクティを口に含む。 いつもより甘くて美味しい気分になった。 暫く、会議室でじっとしていた。そうすると不思議と気分が落ち着いてくる。嫌な影はすっかりというわけではなかったが、かなり追い払えたのは事実だった。 「…アリオス、ようやく落ち着きました、有り難う…」 アンジェリークが礼を言った時は、アリオスは既に何本も煙草を吸い終わっていた。 「そうか…。でも、まだちゃんと駅までは歩けねえだろう。今日は特別だ。車で送ってやる」 車…。 狭い狭いコンパートメントを想像し、アンジェリークは一瞬怯んだ。 「恐いか?」 全てがお見通しとばかりのアリオスの視線に、アンジェリークは首を横に振る。アリオスならなんとか我慢できるかもしれない。そう感じたから。 「だったら無理しなくてもいいんだぜ?」 「大丈夫です…。どうも有り難う…。お気遣い感謝します」 アンジェリークは頭を深く下げて、アリオスへの精一杯の感謝を示した。それにアリオスは僅かに笑っただけだったが、アンジェリークは妙にその笑顔が気に入った。 アリオスは編集部に声をかけてから、アンジェリークを駐車場に連れていってくれる。アリオスの後ろを歩いていると、本当に見守られている気分になり、嬉しかった。 背中を見ているだけで安心する。総てで護ってくれる。そんな気にすらなる。 アリオスはアンジェリークには、”騎士(ナイト)”に思えるのだった。 アリオスは後部座席に乗せてくれる。 そのさりげなさが嬉しいと想うと同時に、どこか寂しく感じる自分がいる。 アンジェリークは自分が先程までは、あんなに後部座席を希望していたのに、いざ助手席の空間を見ると、何だか切ない。 自分自身の心の動きですらも、アンジェリークは戸惑いを隠すことが出来なかった。 車はゆっくりと都心を抜け、アンジェリークの住む住宅街へと向かう。 「アリオス、本当にごめんなさい。ややこしくて…」 「良い小説を書いてくれたらかまわねえ」 アリオスはきっぱりと言い切った。 アリオスとは所詮は”作家と担当”なのだということをいやがおうでも感じる。それがほんの僅か切ないだけだ。 「…そうね、アリオス、良い小説を書かなくっちゃね。また、美味しいものを食べに連れて行ってくれるんなら、考えても良いわよ」 「じゃあ、今度は美味い飯に連れていってやるよ」 「わーいっ!」 アリオスがいつもと変わりなく接してくれるのが嬉しい。腫れ物に触るような形ではなく、本当に普通に接してくれるのがアンジェリークには何よりも嬉しかった。 短いドライブは終わりを告げ、無情にもアンジェリークの家に着いてしまう。 「着いたぜ」 「有り難うございます」 アンジェリークは離れがたいのを感じながら、車からのろのろと降りる。本当は、この辺りを後一周ぐらいはドライブしたかった。 「アンジェリーク、原稿待っているからな。明日でいいから、俺のところに出来たところまでくれ」 「はい」 アンジェリークは頷いてから、車を降りた。降りる際には、空白の場所である助手席が気になる。 特別な女性が座る場所…。 アリオスは誰をその場所に座らせるのだろうか。 車が走り去るのを見届けながら、アンジェリークはあの場所から目が離せない。 誰か特別な女性をあの場所に座らせるのだろうか…。既にそんな女性が彼には存在しているのだろうか。 アンジェリークはそう考えるといたたまれず、胸の奥が軋み過ぎて痛い感じがした。 こんな想いは今までしたことはない。文章にはしたことはあるが、それ以上のことはなかったし、自分で本当にこんな気分になるのかと、疑問視したりもした。 だが今なら解る。 アンジェリークは自分の甘くて苦しい胸を持て余しながら、家に入った。 部屋に入ると、早速パソコンを立ち上げ、今現在執筆中の”フランシス・レオナード”シリーズのファイルを早速開ける。 漢字や文章に間違いがないか、しっかりとチェックをし、推敲をいつもよりもかなり念入りにする。 やはり、編集者のプロ中のプロであるアリオスに、恥ずかしくないような小説を、途中ではあるが読ませたかった。 ”フランシス・レオナードシリーズ”は、アンジェリークにとっては、資料を読みあさり、リアリティを追究した意欲作だ。 特に今回は、ふたりの愛の試練をテーマに事件もより深いものになっている。妊娠八ヶ月の女性が猟奇的に殺され、胎児が引きずり出された事件が題材だ。 何度も挫折しそうになったが、ここまで頑張って書いたのだ。 アンジェリークは何度も推敲してようやくメールで原稿を送付する。 アリオスに何を言われるか想像しただけで緊張したが、今出来るベストの状態で送れたとは思った。 夕飯やお風呂等を済ませた後にメールをチェックすると、アリオスからメールが来ていた。 アンジェリークへ。 アリオスだ。 ”中々の読みごたえだった。メールでは何なので、直接話をしたい。 明日、学校の帰りに寄ってくれ。 今日はゆっくりおやすみ。 アリオス。 ほんの僅かな言葉であっても、アンジェリークには嬉しかった。 アリオスなら何も恐くない。そう感じるのはどうしたか、アンジェリークはまだ解らなかった。 ベッドの中に入り、目を閉じる。 一瞬、今日の男の顔を思い出して、アンジェリークは全身に寒気を感じた。呼吸が乱れる。 深い部分に無理矢理閉じ込めた記憶が込み上げてきそうで、必死に打ち消した。 ゆっくりと呼吸を整えていくと、アリオスの精悍な背中を思い出す。 今度は甘い緊張を感じて、幸せに呼吸が落ち着いてくる。 目を閉じると、アリオスの背中を感じながら、幸せに眠ることが出来る。 こんなに安らかに眠れるのは、久しぶりのような気がした。 |
| コメント アリコレ、新しいシリーズの開幕です。 BL作家アンジェと切れ者(?)編集アリオスの物語です。 楽しんでくださると幸いです。 今回、アンジェが書いているフランシス×レオナード(笑)の題材はモデルがあります。 1969年に起こった「戦場のピアニスト」でお馴染みのロマン・ポランスキー監督の妻、 シャロン・テートが惨殺された事件です。 この間資料集めをしていて、ネットでそのシーンの写真を偶然見てしまい、 気分が悪くなりました(苦笑) |