天使様お手柔らかに!

5


 誰かが見ている…。
 不気味な視線だけを感じる。
 だが、余り怖くないような感覚が、その時にはあった。
 アリオスが平気だから…。アリオスだけは怖くない。
 アンジェリークの心の中で既にその事実が形成されつつあった。
 まだまだ他の男性は怖いが、アリオスだけはアンジェリークの中でも”聖域”である。
 アリオスのお陰か、以前よりも敏感に男性を感じなくなった。

 今日も、”アリオスに呼ばれたから”ということにかこつけて、アンジェリークは編集部に向かう。昨日褒めてくれたことで、少しだけ気を良くしていた。
「…こんにちは…」
 いつものようにそっと編集部を覗きこむと、やはりアリオスは雑誌で顔を隠して寝ている。まただらしなくも長い脚をだらりと投げ出している恰好だ。
 アンジェリークは一度だけくすりと笑うと、アリオスの席につかつかと歩いていく。
「おはようございます、アリオスさん!」
 雑誌を顔から剥がしてやると、アリオスは明らかに迷惑そうな顔をする。それがまたアンジェリークの笑みを誘った。
「何だ…、もう学校が終わる時間なのか…」
 明らかに寝起きと取れるアリオスの態度に、アンジェリークは更に含み笑いを漏らす。
「アリオス、寝起きが弱いんですね」
「うるへー! 俺様は低気圧なんだ…」
「それを言うなら、”低血圧”じゃないですか?」
 しっかりとツッコミを入れれば、アリオスの切れるような鋭い眼差しで睨まれてしまった。
「まあ、恐いっ!」
 わざと言うと、アリオスの口許が僅かに歪んで、笑みを湛えるのが解った。
「会議室に行くぞ。読ませてもらった原稿についての打ち合わせだ」
「はいっ!」
 アリオスが立ち上がると、アンジェリークもその後ろにひょこひょこと着いていく。
 広い、広い背中…。
 今のアンジェリークにとっては、アリオスの背中は最も頼りになると思わずにはいられなかった。
 会議室に入る前に、アリオスは近くの自動販売機でカフェオーレを買ってくれる。社内用の物なので、かなり安くなる。半額で市販の物が飲めるのは、かなり魅力的だ。
 アリオスは勿論無糖のものだ。
 アンジェリークはほくほく顔で会議室に入り、ちょこんとアリオスの前に座った。
「アンジェリーク、煙草、かまわねえか?」
「どうぞ」
 アンジェリークはうっとりとアリオスが煙草を吸う仕種を凝視する。彼が煙草を吸うまでの一連の流れは、アンジェリークも大好きなものだ。
 薄く整った唇に、煙草を押し込めてライターで火をつける。その仕種は、本当に絵になる。
 最初は、小説の描写に役立つと思っていたが、今は純粋にアリオスに見とれているというのが、正しかった。
 アンジェリークはアリオスが最初の紫煙を吐き出すまでは見逃したくないとばかりに、一生懸命見つめる。ずっとずっと見つめていたかった。
「アンジェリーク」
「は、はいっ!」
 名前を艶やかな声で呼ばれ、アンジェリークは襟を正して返事をする。
「読ませてもらったが、中々良いじゃねえか。今回は特に、フランシスとレオナードの心理描写が良く出来ているな。特に、恋するふたりの恋の機微がとてもよく描けている」
「あ、有り難う…」
 アリオスに褒められると、何だかドキドキする。そしてどうしようもなく嬉しいことのように思えた。
 頬が赤くなって、心臓がバクバクと音を立てて躍っている。アンジェリークは甘くも激しい気分になった。
「まあ、今までのおまえの小説に比べたらだぜ。まだまだ踏み込んでいかなければならねえ、解るよな?」
「…はい」
 流石はアリオスだとアンジェリークは思う。ちゃんと釘をさすのを忘れてはいない。
「まだまだ、リアリティにはかける。例えばベッドシーンだな。甘いが凄くあっさりしてるし、本当に愛しているからセックスがよいのか、その当たりが書き切れていない」
 一番苦手な描写をきっぱりと指摘されて、アンジェリークは肩を落とす。やはりそこはアリオスはプロの編集者だ。抜け目はない。
「…私…、ベッドシーンが苦手で…」
 アンジェリークは正直なところを告白すると、アリオスがそうだろうとばかりに頷いてきた。
「だろうな。おまえさんはまだまだガキだし、高校生だからな。濡れ場は描写が難問なのは無理もねえかもな…」
 アリオスはもう一度紫煙を宙に大きくはく。
「ベッドシーンは重要な要素だ。もっと甘く、共感出来て、憧れるような物を描かないとな? 俺もおまえと同じジャンルの本を沢山読ませて貰ったが、どれも綺麗な描写で夢があるよな。あれは、少女向けのハーレクィンのようなロマンス小説と言っても、過言じゃねえだろう。だから人気があるのは解る。だが、人間、本質に目をつむるのはどうかと思うけれどな」
「…そうですね…」
 アンジェリークは耳が痛いとばかりにうなだれる。
 アリオスが自分に普遍的なロマンスを元にした物語を書かせようとしているのは解っている。だが、それはアンジェリークには難しいことではある。少しずつ氷は溶けつつあるが、まだまだ大きな愛をテーマにした物語を書くのには役不足だ。それに、男女のラブシーンはまだまだ書くことは出来ないでいる。
「リアリティを識ることで、より良いフィクションが書けると言うのが俺の持論だがな」
「…そう、ですね…。でま、私にはまだまだ難しい…」
 そこまで言ったところで、アリオスと視線がぶつかる。彼の視線は容赦がなく、切れるようで恐ろしい。
 ちゃんとまともに見ることが出来ない。dが、アリオスの言葉と私撰はアンジェリークに容赦なく降り注いでくる。
「おまえには必ず出来る。だから、逃げるな」
 アリオスはきっぱりと言い切り、アンジェリークを見つめてくる。
「…でも、まだ私には重いテーマに思えてならないんです…」
 アリオスの鋭い視線をわざと避けるようにして、アンジェリークは俯く。今はとても痛いもののように思えてならなかった。
”フランシス・レオナード”シリーズはこのまま書き進めてくれ。良い感じに仕上がって来ている。煽り文句も考えておいたから、チェックしておいてくれ」
「はい…」
 アンジェリークは少し力無く返事をしてから、資料を受け取った。
「…有り難うございます…」
 いつも表紙をお願いしている、人気イラストレーター、アンジェリーク・リモージュのイラストが既にカラーで描かれており、その横にアリオスが考えたキャプションが付いている。
 ”誰も俺達を止められやしない””嵐を呼ぶふたり! 再び!!”
 中々ではないかと、アンジェリークは思った。
 アリオスの煽り文句はシンプルで的を得るものだ。
 ここまで済んでいるということは、アリオスが頑張ってくれた証拠だ。
「…有り難うございます」
「少女向けの雑誌への告知は、再来週だ。それまでに原稿も貰わねえとな」
「はい! 頑張ります」
 アリオスが担当として一生懸命やってくれているのだ。ここは頑張って上げなければならない。実際、昨日頑張ったせいか、クライマックスシーンを残すのみとなっている。
 やらばければというアドレナリンが、沸々と沸き上がってきた。
 心の中で予感が芽生える。
 きっと、今回の”フランシス・レオナード”シリーズは最高の出来になるだろう。
「頑張れよ」
「はいっ!」
 くれたアリオスの眼差しは温かく、アンジェリークはこれから頑張れるような気がしていた。


 あれから、アリオスとはメールでやり取りをしながら、原稿を進めている。
 アリオスが少しでも褒めてくれたのが嬉しくて、それが原動力となって原稿が進んでいた。
 予定よりかなり早く原稿が書き終わったので、アンジェリークはいそいそと編集部に向かう。
 久しぶりに、学校以外の外出だ。
 と言うのも最近、気のせいかも知れないが、不気味な視線を背中に感じ、明るいうちにしか、行動しないようにしていたのだ。
 その視線は、何だか気持ち悪く、アンジェリークは明らかに不安を感じていた。
 だが、見たわけではないので、どうもすることは出来ない。
 背中がぞくりとするような、あまり宜しくない感覚だ。
 思い出したくない記憶が蘇ってきそうで、アンジェリークには辛かった。
 早歩きをしても、それに合わせて着いてくるような気がする。
 今日はいつもより変な感覚が強くて、アンジェリークは背中に汗を感じながら急いだ。
 ようやく出版社の玄関に入り、入口の警備員に会釈する。
「ちょっと、当社にどのような御用ですか?」
 背後の人物が呼び止められ、アンジェリークは思わず振り向いた。
「………!!!」
 不気味な笑顔に、忌まわしい記憶が蘇る。
 もう二度と見たくはない顔。
 凄惨な過去------
「いやあっ!」
 アンジェリークは恐怖の余り心臓が止まるかと思う。悲鳴が響いた瞬間、男は逃げ出し、アンジェリークは恐怖の余りに気を失う。
「大丈夫か!?」
 記憶の深い場所で誰かがしっかりと抱き留めてくれたことだけが、ただ解ることだった。
コメント

アリコレ、新しいシリーズの開幕です。
BL作家アンジェと切れ者(?)編集アリオスの物語です。
楽しんでくださると幸いです。

次回は、アンジェの男性恐怖症の理由を深く描いていきます。
勿論克服のためには、アリオスさんが不可欠です。




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