Leave Yesterday Behind


 タイムリミットが近付いているかもしれない。
 鏡に映る自分の顔色を見て、アンジェリークは小さく吐息を落とした。
 ちゃんと寝ても疲れは取れない。目の下にくっきりと出ている隈は、益々色濃いものになっている。
 フランシスに言われるように、アリオスにばれるのは時間の問題かもしれない。
 ただし、アリオスがまともにこちらを見ればの話だが。
 少なくとも、次の憂鬱な木曜日までにはまだまだ間があるし、それを乗り越えればゴールは近い。
 それにアリオスは知らないはずだ。アンジェリークがこの街を去るなんて。気にも留めないだろう。
 せいせいするに決まっている。こちらもせいせいするのだから、おあいこなのだが。
 アンジェリークは病室に行く前に、時計を覗きこんだ。
 今日は伯父の誕生日だ。アリオスはきっとお祝いに行っているのに違いない。
 つい気にしてしまう自分に苦笑いしながら、アンジェリークは仕事と言う名の戦場へと向かった。


 アリオスは楽しくもない、義理の父親のバースデーパーティーに来ていた。
 ここにいても、何一つ建設的にはなれやしない。
 上流階級によくある、悪口大会だ。
 ただ、アンジェリークのことを言う時だけは、つい参加をしてしまう。
 このあたりの上流階級では、「悪魔の看護士」と囁かれていた。
 自分の妻を奪ったのだから当然だとアリオスは思うが、またいつも後味の悪い想いに苛まれていた。
「だいたい、あんな娘が看護士だなんて、世も末です。あんなひとひとり助けられないのが、看護士をする自体間違っているのよ! 病院側にそのことを言ったら、解雇を検討するって言ってくれましたけれどね…」
 エリスを偶像視するまでに、母親はきつい言葉を投げ掛けている。
 解雇はやりすぎではないかと思うが、それでアンジェリークがどうなるかとかは、特に考えなかった。
 考える必要などないと思ったのだ。
「…この間も、誕生日を祝いに来ていたけれど、あれもどうかと思うわよ。クリスタルの灰皿なんて、粉々に割ったわ」
 誰もが「当然」と相槌をうっていたが、アリオスはそうする気にはなれなかった。
 悪口大会から脱却したくて、新鮮な空気を吸いたくて、バルコニィに出る。
 煙草を吸いながら、アリオスは夜空を眺める。
 きっとエリスはこんなことを望んではいない。
 誰よりも優しく、アンジェリークを見守っていたのだから。

 事務長に呼び出され、突然解雇を言い渡された。
「クビですか?」
 解雇を言い渡され、アンジェリークはそれを冷静に受け止めた。きっと伯母が街の名士に働き掛けたのだろう。
 それにどうせ辞めるつもりだったのだから。この御礼奉公が終われば。
「患者はともかく、君は余り地域の上流のひとたちと折り合いがよくないみたいだしね。”悪魔の看護士”と呼ばれている君を、いつまでも置くわけにはいかない…」
 ちらりと値踏みをするような事務長に、アンジェリークは辟易していた。そこまで言われなくても、仕事は辞めるはずだ。
「解りました、退職します」
 アンジェリークは自分でも驚くぐらいに冷静に言うと、事務長に頭を下げた。
「二週間後に退職で、いいかね」
「はい、結構です」
 アンジェリークはさばさばと言うと、頭をもう一度下げて、事務長室を辞した。
 これで、手術を受けた後の処遇を考えられる。入院している間、もたもたしてはいられないが。
 この手術を受ける為に、高額保障の保険にもきちんと入り、ようやく支払われる期間に入った。
 これで身辺整理をすることが出来る。
 アンジェリークは仕事の後のボランティア活動に心の平安を見出だしながら、仕事に向かった。

 仕事が終わり、アンジェリークは恵まれない人々への炊き出しと、簡単な健康チェックのボランティアに参加した。
 そこで見た顔に、アンジェリークはうんざりとする。
 アリオスだ。
 エリスとふたりでよくボランティア活動をし、アンジェリークもそれを手伝ったことがある。
 なのでアリオスの活動自体には、驚きはないが、そこにいられるのがたまらないぐらいに苦痛だった。
「偽善者も魂を清めるために来たのか?」
 アリオスに皮肉を言われても、アンジェリークは無視をする。
 こんなことに真剣に反論するほど無駄なものはないと知っているし、反論する元気も残っていないのも確かだった。
 壊れかけの心臓のおかげで、今は立ちくらみが酷くなってしまっている。その上、不快な痛みすらある。
 そちらに気を回すのに必死で、アリオスを気にしてはいられないのが本音だった。
「私は私のしたいことをするまでです。失礼しました」
 アンジェリークが睨みつけると、アリオスは久々に顔を見てくる。次の瞬間、眉根を寄せる。
「お前…、具合悪いんじゃねぇのか? その顔色は異常だぜ? 医者には行っているのかよ?」
 アリオスに凝視されて、アンジェリークはそれを逸らす。
「ちゃんとかかりつけのお医者さまもいるから、心配なんかしないで下さい」
 アンジェリークは完全に拒絶してしまうと、アリオスを無視して、そのまま自分の仕事についた。
 気付かれなくないし、このまま上手くやり過ごしたい。
 アリオスに逢うのも後数回なのだから。
 アンジェリークはボランティアを終え、アリオスを避けるように家路についた。
 これでいいのだ。
 家に帰ると、胸の傷みが激しく襲ってきた。
「…!!」
 心臓もアリオスの前では倒れたくないと思ってくれていたのだろうか。
 アンジェリークは、自分の心臓に感謝をしながら、フローリングに倒れこんだ。
 明日はオフだ。病院に行き、傷み止めの処方をしてもらわないといけないと、ぼんやりとする頭で考えていた。

 翌日は雨で、アンジェリークは癒される気分になる。
 病院に行き、傷み止めを処方してもらったが、心臓内科医のフランシスは余り良い顔をしなかった。
「解っているとは思いますが、そろそろ安静にされたほうが良いかもしれません。仕事のけりはついていますか?」
「二週間後には離職します。クビになりましたから…」
 フランシスは面妖な顔をし、眉をしかめた。
「倒れたとか?」
「…いいえ…。伯母が病院関係者に、働き掛けたみたいです。定かではないですが…」
 アンジェリークは疑心暗鬼になりたくはなかったが、そうならざるをえない結果だったので致し方ない。
「…それは…」
 フランシスは言葉をなくし、考えこんでいるようだ。
 憐れみは持って貰いたくない。これがアンジェリークなのだから。
「血の繋がらない、望まれない子供なので…。私は…」
「アンジェリーク…」
 アンジェリークは瞳に涙すらも浮かべることなく、毅然とした瞳でフランシスを見る。
「だから私は、愛に餓えている子供たちに手を差し延べる仕事をしようと思ったのです」
「…アンジェリーク…」
 フランシスが何も言えないような表情をしていたので、アンジェリークはただ静かに微笑んだ。
「だから先生、私は明るい未来を真っ直ぐに見ているんですよ」
 キッパリ言い切ったアンジェリークには、迷いなど一切あるはずがなかった。
「解りました。無理しないように。私が出来る限りのサポートは喜んでさせて頂きますから」
「有り難うございます、フランシス先生」
 結局は、アンジェリークの決意の強さに、フランシスが折れたかたちだった。

 アンジェリークは処方された薬を薬局で貰った後、真っ直ぐ家に帰った。
 それが限界に近かったからだ。
 雨のなか、アンジェリークは心許ない声を聞いた。
 小さな、小さな声の主を探すと、震えてずぶ濡れになった子猫がいる。
 泥だらけで余りに可愛いそうで、つい拾いあげる。
「…お前もひとりぼっちなのね…。一緒に暮らそうか」
 アンジェリークは小さな命を抱き上げると、自分の懐に入れ、小さなアパートに連れてかえった。
 部屋を温かくし、泥を落として温めてやる。
 泥を落とすと、驚くぐらいに綺麗な猫だった。
 食事をやりながら、アンジェリークはじっと子猫の様子を見る。
 これからはひとりじゃない。
 この猫を幸福にしてやりたいと、強く願った。
「お前はアルフォンシアって名前をつけてあげる。綺麗なお前にはぴったりでしょ?」
 名前をつけてやると、喉をゴロゴロと鳴らしながら挨拶をしてくれる。
 何もかもが癒された。


 もうすぐ退職だ。
 アリオスにはもう逢わなくて済むだろう。こっそりいなくなるつもりだ。
 手術をする間は、レイチェルに子猫の世話も頼んでいるので安心だ。
 だから後は、幸福が待っているはずだ。
 この日もアンジェリークは何時もの時間に通勤バスに乗り込んだ。
「………っ!!!」
 突然、今までで最大級の痛みが心臓を襲う。
 痛みを感じた瞬間、アンジェリークは気絶していた。

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秋になりおなじみの愛の劇場がスタートです!
宜しくお願いします。




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