Leave Yesterday Behind


 アリオスがメインに勤めている病院に、身元不明者が運ばれてきたのは、出勤間もない、朝だった。
 白衣に着替えると、直ぐに呼び止められる。
「アリオス! 直ぐにオペ準備にかかってくれ! 通勤バスで倒れた心臓発作を起こした女性の緊急手術が必要だ。余り、 良くない状況だ今、麻酔中だ。頼んだぞ!」
 心臓内科医のオスカーが、慌ただしく話してきたので、アリオスは直ぐに準備にかかる。
「状況は?」
「心臓には人工弁を入れなければならないようだ。しかし、それをすれば、恐らく生きていける。これからも…」
「深刻は深刻だが、何とかなる病状なんだな。オッケ、解った」
 アリオスは直ぐに準備にかかる。
 今日はこの仕事を終えたら、アンジェリークの勤める病院に行かなければならない。
 伯母の差し金で、解雇されるという噂を聞いたのだ。
 それは余りにも重い。
 アンジェリークには怨みもあるが、それと仕事まで奪うのは別だと考えていた。
 アリオスは準備を終えると、手術室に入る。もう患者は運ばれてきたところだ。
 いつも、感情を入れないためにも、アリオスは患者の顔を見ない。
 それが手術を完璧に遂行させる秘訣でもあった。
 患者はかなり若いようだった。滑らかな美しい肌にメスを入れるのは、非常に忍びないことのように思える。
 それほどの肌をしていた。
 傷が殆ど残らないような形でメスを入れ、アリオスは患者の心臓が、再び元気良く動き出すように、懸命の処置をする。
 医師として、それはごく当たり前の行為であった。
 金属製の人工弁を取付け、処置を済ませて縫合をする。
 アリオスには珍しく、傷が遺らないようにと、細心の注意を払っていた。

 手術が終わり、つかの間の休憩をしていると、オスカーが声をかけてきた。
「良い手術だったそうじゃないか。かなり良かったと評判だ。患者の傷痕にも考慮してたって、感激する看護婦もいたぞ」
「最低限のことをしたまでだ。ちょっと出てくる。許可はもらっているからな」
 アリオスは席から立ち上がると、オスカーに挨拶だけをして、病院を出る。
 我ながら馬鹿なことをしていると思いながら。

 アンジェリークが勤めている病院に出向くと、意外なことを言われた。
「アンジェリークが初めて無断欠勤をして…。いくら、連絡をしても連絡が取れないんです…。やぶれかぶれになったなんてことは、ないですよね?」
 アンジェリークの同僚たちは、かなり心配をし、手分けして連絡を取ろうとしていた。
 だがどうしても連絡は取れないようで、誰もが表立ってはいないが、事務長のせいだと口々に言っていた。
 今日はそのことについて話そうとしていたが、アンジェリークの失踪騒ぎが起きているとは、思わなかったのだ。
「…だけどアリオス先生…じゃないですよね。…アンジェリークを辞めさせようとしているのは…」
 ひとりの看護士が言った一言に、誰もがアリオスに疑いの目を向けている。
「…なぜそう思う?」
「だって先生、アンジェリークには露骨に虐めるような態度を取っているから…」
 ばつが悪そうに、看護士は言ったが、アリオスはまさにその通りだと思わずにはいられなかった。
 アンジェリークに対する態度は、露骨なのかもしれない。
 だがそうせずにはいられない事情もあるのだ。
 不意に電話を取った看護士が声を上げた。
「アンジェリークが!? はい、では当分は仕事は無理だと…。このまま退職になる…そうですか…。はい。またお見舞いに行きます…。はい…。お大事に」
 そこまで言った後、電話を切った。
「アンジェリークがバスの中で心臓発作を起こして倒れたそうです」
 誰の顔にも動揺が広がる。
 バス、心臓発作…。
 アリオスは身に覚えのある症例に、眉をひそめた。
「幸い手術も成功したらしくて。アンジェリークのお友達も、今から逢いにいくと言ってました」
 アリオスは背筋に冷たいものが流れるのを感じる。
 まさか、まさか…。
「病院はどこだ?」
「先生がお勤めの病院です」
 聞いた瞬間、アリオスは走り出していた。
 まさか、あの発作を起こした若い女が、アンジェリークだったとは思わなかった。
 何時も患者の顔を特に見ないことで、何も不便を感じたことはなかった。今日ほど後悔したことはない。
 病院に戻ると、直に事務局の女性に問い合わせた。
「さっき、俺が手術した患者の身元はわかったか?」
「ええ、アンジェリーク・コレットさん。先生が週一回訪れている病院の看護士さんだったんですね」
「サンキュ」
 アリオスは礼だけを言うと、足早に滅菌室に向かう。
 やはり、アンジェリークだったのだ。
 アリオスは滅菌を施し、アンジェリークのいる集中治療室に向かった。
 中に入ると、アリオスも顔見知りのレイチェルがいる。
「アリオス…、あなたがアンジェの手術をしたの?」
「そうだ」
 アリオスはバイタルサインを確認しながら、苛々しながら呟く。
「アンジェリークはいつから心臓が悪いんだ?」
「そんなこと、アナタには関係ないじゃない」
 レイチェルは、アリオスがアンジェリークを邪険に扱っていることを知っていてか、わざときつくあたる。
 それでもアリオスは耐えなければと、唇を噛む。
「手術したところ、かなり前から爆弾を抱えていたみたいだな。およそ2〜3年前からだろうな。あれだと…」
「流石は有名な心臓外科医さん。その通りだよ。だけど、詳しいことはアンジェにきいて。ワタシからは言えないよ」
「解ってる」
 アリオスはぶっきらぼうに言うと、アンジェリークの様子を見る。きちんと手術が出来たのは良かったとは思う。
 後はちゃんと目覚めてくれるのを祈るだけだ。外科医としての仕事は、術後を見るのもあるが、果たしてアンジェリークがそれを望んでいるかは、謎だ。
 望まないだろう。
 病気のアンジェリークをあのような仕打ちをしたのだから。
 アリオスがアンジェリークを診ていると、ノックをしる音がし、オスカーが入ってきた。
「アリオス、緊急オペが入った。直ぐに準備をしてくれ」
「ああ」
 アリオスは後ろ髪を引かれる気分で、アンジェリークの傍から離れる。
 今度逢ったときは、目が覚めていることを願いながら。

 疲労困憊になるようなオペを終えて、アリオスはアンジェリークの様子を眺めにきた。
 今夜はレイチェルも付き添うつもりらしい。
「主治医ってそんなに頻繁に来るものなんだ」
 レイチェルはしらっとして厭味を言うと、アンジェリークの傍から離れなかった。
「もうすぐ、麻酔が覚める。かなりの痛みになるだろうな…。痛み止めの薬を入れないといけないだろう」
「そうだね。この子は我慢強いからさ、きっと我慢しちゃうとと思うよ」
「だろうな…。あの痛みが我慢出来るぐらいなんだからな…」
「そうだよ…」
 レイチェルは頷くと、涙が溢れるのを止められない様子だった。
「…こんな爆弾抱えて、よくここまで来たと思う…。誰にも言わないのは、アンジェリークらしいけれどな…」
「…ワタシは病気のことは知っていたよ。看護士なんてハードな仕事は止めなさいって言ったんだけれどね…」
 レイチェルは知っていたのに、自分は知らなかった。アリオスは疎外感を感じずにはいられない。
「どうして何も言わなかったんだよ…。直ぐに手術をしてやったのに…」
 アリオスが呟くように言ったことを、レイチェルは見逃さなかった。
「…あたりまえだよ。あんな態度じゃ言えるわけがないよ…」
 レイチェルは最もなことを言うと、アリオスを非難するような眼差しで見てきた。
「…だけど手術はもう決まってたんだ。来週には別の病院で受けるはずだったからね…。それがちょっと、早くなっただけ」
 レイチェルはアンジェリークには優しい眼差しを向けると、見守るような微笑みを向けた。
「ん…」
 僅かにアンジェリークの瞼が痙攣するように引き攣り、アリオスはじっと目を開けるのを待つ。
 オーロラ姫の目覚めを待つ、王子の心境だった。
 アンジェリークが瞳を開ける。だが、アリオスを見るなり些か瞳が強張った。
「…痛い…」
 切ない子供のような声にアリオスは抱きしめたくなる。
 それは決して許されないと、解ってはいても…。
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秋になりおなじみの愛の劇場がスタートです!
宜しくお願いします。




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