10
さくらの味がほんのりとしたキスは、戯れの証。 アンジェリークは乾いた唇を舐めながら、ぼんやりとそんなことを思った。乾いたくせにやけにしょっぱい。 家に帰り着くまで散々泣いて、自分の部屋に辿り着いてまた泣いて。 どれぐらい泣いたか解らないが、昔、中東の女性が涙を貯めるために使った”泪壺”がいっぱいになるぐらいは、しっかりと泣いたと思う。 外が夕闇の鎖に繋がれても、アンジェリークは明かりをつけようとせず、そのまま部屋にぼんやりと佇むだけ。 ”シェルター”と呼んでいる部屋にいても、暗くてずしりとした想いを追い払うことは出来なかった。 そんな想いをやり過ごしたくて瞳を閉じると、アリオスと女の姿が滲んで苦しかった。 胸が痛い。 いつもに増して苦しさが躰を劈いて、何度も浅い息をする。くせのように胸元をぎゅっと握りしめると、くらくらと世界が回るのを感じた。 「…せんせ…神様…助けて…」 声に出して蹲っても、誰も助けてはくれない。アンジェリークは深い息を何度もして、小さな握り拳を作った。 どうか、この嵐が過ぎ去りますように…。 「…私の誕生日までだから…ねえ、お願い…。どうか、普通の生活が出来るように動き続けて下さい…」 まるで何かに追い立てられるような声で、アンジェリークは自分の胸を撫でて言い聞かせる。 後、少しだから…。 翌日は、自分の心と同じ花曇りの嫌な天気になった。 きっと直ぐに雨は降りだしてしまうだろう。今日の体育の授業が屋内であればいいのに。それなら、保健室に行かずに、見学だけで済む。 ゆっくりとした足並みで学校までの道を歩いていると、少し先にアリオスが待っているのが見える。 また心臓がやけに激しく動く。 ずっとずっとこの音とは付き合ってきたから、敏感に心の機微を感じた。 やり過ごさなければならない-----喉の奥までからからになるのをアンジェリークは感じながら、何気なくアリオスの横を通り過ぎようとする。 「おはよう、アンジェリーク」 アリオスがいつものように朝の挨拶をしてくれたが、アンジェリークはきちんと返事をすることが出来ない。ただ、ここを何とか脱出しなければと、脅迫観念ばかりが働く。足も自然と速くなる。 「おい、おまえは朝の挨拶も出来ねえのかよ!?」 アリオスが明らかに苛立った論旨で言うと、アンジェリークはただ一言小さな声で「おはようございます」とだけ呟いた。それ以上は何も言えなかった。 胸がいっぱいで、頭の中もぬかるんでいてごちゃごちゃで何をしていいのかも解らない。 ただ頭の中に浮かんだ言葉は----遁走だった。 ばたばたと走り、何とか学校にたどり着いた時には心臓が酷く呻り声を上げていた。 呼吸をするのも厳しくなり、アンジェリークは校門をくぐるなり、桜の樹に手を付いて呼吸を整える。 「おい、アンジェリーク!」 不機嫌そうな顔をしていたアリオスが、こちらに走って来るのが解る。 「来ないで」と言う気力もなくて、アンジェリークは思い詰めた眼差しをアリオスに向けるしか出来なかった。 「気分が悪いのか?」 「悪くありません」 呼吸するのも大儀なくせに、アンジェリークは素直に言うことは出来ない。もやもやとしてどろどろとしたヘドロのような嫌な感情が、心に渦巻いて、素直な言動を取らせてはくれなかった。 「そんな真っ青な顔をして、何もないってことはねえだろ? とにかく保健室で…」 「…やっ…! 先生は他に構う人がいるはずでしょう!?」 アリオスに腕を取られようとして、アンジェリークは咄嗟にそれをはねつける。自分のちっぽけな自尊心が無意識に取らせた行動だった。 怖くてアリオスの顔をまともに見ることが出来ない。だが、その身体からは怒りのオーラが激しく出されているのが、肌で感じられた。 「-----勝手にしろ! 俺はおまえがどうなっても知らねえからな!」 雷のような激しい怒りが滲んだ声。振り向くと、鷲のような獰猛な冷たさが、アリオスの背中から滲み出ているのを見て取れた。 こんなに近くにいるのに、もうアリオスはどうしようもないぐらいに遠くに行ってしまったようにアンジェリークは感じる。 自分の嫉妬が招いたことなのに。アリオスには何も責任はないというのに。 「私って本当にバカ…」 小さく囁いて自嘲気味に笑っても、ちっともよい気分になんかなりはしない。それどころか、この嫌な感情が自分の夢を遠ざけていっているのが解る。 「-----アリオス先生と恋をするなんて、側に行きたいなんて夢は…かなえるべきじゃなかったのかなあ…」 また胸に痛みを感じる。 大きく深呼吸をして落ち着くまで、アンジェリークは桜の木の下で小さくなる。 ぽつりと頬を涙雨が濡らしていた----- アリオスを拒絶してしまった以上、保健室に行くことは出来ない。 保険医フランシスのところにも行く気にはならず、かといって体育館でじっと見学する気分でもなく、アンジェリークは渡り廊下から雨の裏庭を眺めていた。 雨露に濡れる緑はいきいきとしていて、来る躍動の季節に胸を躍らせているかのように見える。 ただ頬杖をついたままで、アンジェリークは空を見つめていた。 「おい、アンジェリーク、どうしたんだァ、授業はよォ!」 聞き慣れた声に振り返ると、そこには親しげに副担任であるレオナードが立っていた。アンジェリークとも仲がよいエンジュと付き合っているので、何かしら気に掛けてくれている。 「レオナード先生…。体育なので、ここでぶらぶらしてたんです」 「保健室には行かなかったのかよ?」 アンジェリークはふっと寂しい顔を自然にしてしまいそれを誤魔化すように笑った。 「たまには自然と気分転換もいいと思って」 「そうか。気分が悪くなったら、いつでも保健室に行けよ?」 兄のように心配をしてくれるレオナードの優しさが、アンジェリークには眩しくて目をすっと細める。 「有り難うございます」 素直に礼を言った後、アンジェリークは灰色の空を見上げた。 「ねえレオナード先生、もし最後にひとつ、あなたの願い事を叶えますよって、言われたらどうしますか?」 アンジェリークが唐突に訊いたからか、レオナードは少したじろいだように見えた。 「何だそりゃあ?」 「良いから真剣に答えて下さい」 アンジェリークはつい早口で強めに言ってしまう。その真摯さに、レオナードは困ったように考え込んだ。 「そうだなァ、エンジュと一緒にいてえって思うかもな」 神妙な顔で答えてくれたレオナードに、アンジェリークは優しい表情で頷く。 「やっぱり、大好きなひとと一緒にいたいって思いますよね…」 アンジェリークはしみじみと言い、空をまた見上げる。 「アンジェリーク…」 そこにはもう自分しかいないような、そんな気分になる。憂鬱と深い思慕が胸wp渦巻いて、メランコリーな気分を形成していた。 ふと、庭に見馴れない清楚な女性とアリオスがいるのが見えた。 「レオナード先生、あれ…」 「ああ。さっきアリオスを訪ねてきた女性だ」 「…そう…」 また心がどこかに行ってしまう。ちりちりばらばらになって、空中で分解してしまうのではないかとすら思う。 女はとても美しく、切なそうな表情でアリオスの胸に顔を埋める。それをアリオスが苦しそうな表情で受け止めているのが見えた。 「おい、あんまりここにいたら風邪を引く…」 レオナードがあまりに気遣しげな声で言うものだから、アンジェリークは心配させまいと笑顔で頷いた。 「そうですね。私、教室に戻って、みんなを待っています」 「ああ。そうしろよ」 「有り難う、先生」 アンジェリークは礼をしっかりと言うと、雨の中教室に戻っていく。 あの顔を見れば解る。 アリオスは本気だ。あの女性はきっと、アリオスが本当に好きな人なのかも知れない…。 アリオスが職員室に出向くと、珍しくレオナードに呼び止められた。 「今日な、アンジェリークが妙なことを言ってな」 「俺には関係ねえよ」 アリオスは冷たく言い放ったものの、アンジェリークが一体何を言ったカキになり、レオナードの傍を離れることが出来ない。 「関係ねえって言ってる割には、離れねえんだな」 アリオスは答えない。だが事情を察してか、レオナードは僅かに口角を上げた。 「ここからは俺の独り言だ。アンジェリークは俺に『もし最後にひとつ、あなたの願い事を叶えますよって、言われたらどうしますか?』って、言いやがったんだよ。その意図は俺にはさっぱり」 「最後に願いを叶えられたら…」 アリオスはアンジェリークの寂しい言葉を、何度も小さな声で反芻する。胸が壊れそうなぐらいに痛くなるのは、気分の問題なのだろうか。 「それと、これも俺の独り言。あのこ、今日、おまえがどこの誰か知らねえ女を抱きしめているのを見て、辛そうだったぜェ。さあ、煙草でも吸いに行くかなァ」 レオナードが廊下に出てしまい、アリオスはそのまま唇を噛み、自分の心を持て余す。 どうしてこんなに胸が痛いのか。 辛くて、切なくて、どうしようもないのかが解らない。 アリオスの思考を破るかのように、ルヴァが忙しそうに職員室に戻ってきた。 「やぁあアリオスこんにちは。あ〜忙しいですねえ、これからすぐ社会科の会議なんですよ〜」 忙しく慌てている割には、のんびりとしたルヴァの口調に、アリオスは苦笑を漏らす。 レオナードの横の机に書類をばんと奥と、ルヴァは慌てて職員室を出て行く。 その時、書類から一枚の紙が足下に落ちた。 「ったく、そそっかしいルヴァ先生だぜ」 アリオスは足下に落ちている書類を手に取るなり、心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。 まるで時計の音や、映画で不吉なことが起こる時の効果音のように大きく不安定になっていく。 書類を見る成り、眼差しも指先も震える。 それはアンジェリークについての書類だった。 アンジェリーク・コレット メイク・ア・ウィッシュ・プロジェクト0012567 ウィッシュ内容:普通の高校生としてスモルニィ学院に通いたい----- メイク・ア・ウィッシュ・プロジェクト----- 外科医であるアリオスはそのプロジェクトのことを聞いたことがあった。 難病の18歳までの子供の願いを叶え、生きる力と闘う力を持って貰うものだ。 全身が酷く震えるのを感じる。 やはりアンジェリークは難病を抱えていた。しかも、このプロジェクトに参加出来る子供は、余命を告げられている場合が多い。 レオナードが先ほど言った言葉がこだまし、アリオスは居たたまれない想いに唇を噛みしめた----- TO BE CONTINUED |
| コメント 愛の劇場です。10回目です。 久しぶりに教師と教え子。 頑張ります。 |