Rainbow Connection


 俳句を認めるノートは、アンジェリークにとっては、まさに”命の瞬間”を記録させるものだ。
 アリオスに出会うまでは、そんな記録をするなどとは、思ってはいなかった。だが今は、目を逸らさずに、じっと記憶をしていこうと思っている。
 最後の日まで。
 ぱらぱらとノートをめくりながら、アリオスは綺麗な面差しを冬の光のように輝かせていた。
 少し真面目腐ったアリオスの横顔が、アンジェリークには好ましい。
 ぱたんとノートが閉じられる音がして、何故か胸がきゅんきゅんと母を恋しく思う子猫の鳴き声のような音を立てた。
「アンジェリーク、中々しっかりと書けているとは思うが、おまえならもっと良いものが書けると思うぜ」
「有り難うございます」
 アンジェリークはまだまだだと自分に言い聞かせながら、ノートを受け取る。アリオスに見てもらったと思うだけで、とても大切なもののように思えた。
「また、新しい俳句が出来たら見せてくれよ」
「はい。お願いしますっ!」
 ノートがアリオスとの揺るぎ無いパイプのような気がする。アンジェリークは愛しいものとして、大切な宝物としてしっかりと抱きしめた。
 じっとまるで情熱的なラテンの血を受け継いだ男性のように見つめられ、アンジェリークは思わず空に誘われるふりをして、横を向く。
 顔が熱い。ほてってしょうがないぐらいに。
「きょ、今日は誰も来ないみたいですね」
 自分でも、声がかなり上ずってしまうのに気付いていたが、それを止めることは出来なかった。
「そうだな。ユーイみてえに他のクラブと掛け持ちにしているやつばっかだからな、おまえぐれえしかいねえんだよ。純粋な俳句部員」
 アンジェリークが胸を跳ね上げさせながら外を見ていると、アリオスも横に立って眺めてくる。ほんのりと漂うムスクの香りに、更にときめきは上がる。ずっと大好きで堪らない香りだったのだ。
「綺麗な春空を季語に一句詠んでみるか?」
「へぼいですよ?」
「それはいいっこなしだ」
「はあい」
 アンジェリークはのんびりと返事をすると、机に向かうことにした。
 するとアリオスがひとつ手前の椅子に腰を掛けたが、脚が長いせいで随分と窮屈そうにしていた。
 アリオスが躰だけをアンジェリークに向けて、じっと見つめてくる。お尻の底が何だかムズムズするぐらいに落ち着かない。これじゃあ心臓にはかなり悪い。
 シャープペンシルを持つ手が何だか震えてしょうがなかった。
 ちらりと春風に当たるアリオスを見た。
 なんて美しいのだろうかと思う。
 躍動感が溢れる、生きている美しい瞬間を映し出している。生きている人間のきらめきほど美しいものはないのだと言う事を、アンジェリークは深く感じた。
 優しい心を運ぶ春の空。
 春風は生きている瞬間を映し出す鏡。
 アンジェリークはさらりと二種の俳句を読むことが出来た。
 三つ目を書こうと、じっとアリオスを見つめる。不思議なことではあるのだが、アリオスを見つめたり考えたりしていると、不思議と俳句が思い浮かぶ。
 そう。
 それが今、アンジェリークが生きている証であるから。アリオスがここにいるから、アンジェリークもまたここにいるのだ。
「おっ、早速書けたみてえじゃねえか」
「春風のお陰です」
「見せてくれ」
 アリオスがノートを手に取ると、流石のアンジェリークも、緊張してしまう。
 甘い名残による震えなのか、それとも俳句を見られることによる緊張なのか、アンジェリークには解らなかった。
 アリオスが吟味するように俳句を見るものだから、何だか成績を見られているようで面映ゆい。落ち着かなかった。
「中々おまえらしくていいんじゃねえか? まだまだ書けるだろ? 書いてみろ」
「アリオス先生ー、そんな軽々と言わないで下さいよーっ!」
 アンジェリークは少し軽口風に言いながら、ノートで恥ずかしそうにしている自分の顔を隠す。
 そうすると、アリオスにはにかんだ表情を見られなくて済むので、良かった。
「俺はおまえの才能を高く評価しているんだぜ? おら、頑張れよ」
「ぷぅーっ!」
 アンジェリークは口を尖らせて家鴨のような顔をしながら、ノートを楯にする。
 ふと、アリオスの綺麗な指先が栗色の髪をくしゃくしゃにしながら撫でて来た。指先から零れる髪の官能的な動きに、息が詰まりそうだ。
 だがこの上なく気持ちが良い。
 頭を撫でられて喉を鳴らす猫の気持ちが、アンジェリークには初めて理解することが出来た。
「…先生の指先で撫でられたら気持ちが良いね…。まるで神様の手を持っているみたい…」
 アンジェリークが気持ち良い声で言い終わるやいなや、アリオスの指先がぴくりとしなるのを感じた。
「神の手か…。俺のやつはそんないいもんじゃねえよ」
 苦しいのが言葉尻に感じる。顔が苦痛で歪むのをアンジェリークは見逃さなかった。
「先生…」
 アリオスの気持ちも指先も、冷たくなって離れていくような気がする。こんなに近くにいて、同じ部屋の空気を吸っているはずなのに、アリオスは遥か遠くの人間のように思えた。
 肉体は近くにあるのに、心は遥か外国にいるような気分だ。
 アンジェリークはどうして良いのか解らず、力の無い笑みを浮かべると、そのまま視線をノートに下げた。
 先程書いた俳句が、妙な字に見えてしまい、ぎこちなく踊っているように思えた。
 暫く、ペンが上手く走らない。かと言っても、アリオスをじっと見て、俳句を捻り出すわけにもいかない。
 どうしていいかが解らなかった。
 窓の外からは、ほんのりとした色を運んできた春風と、命の青い煌めきを輝かせている運動部員の声。遠くでは車が通り過ぎる音がする。それらが混じりあって、小気味よいオーケストラを形成していた。
 いつしか、アンジェリークは窓の外を頬杖をついて眺める。
 同じ春の空でも、見る場所によって、傍にいる人達にとって、こんなに違うのか。
 無意識に手が動いていた。
 「窓によって煌めきが違う春の空。」
 「春風よ楽しい色を運んでくれ。」
 幾つか書いていると、アリオスの視線が、アンジェリークのシャープペンシルの行方を真摯に追っているのが感じられた。
「先生?」
「中々おまえらしい俳句じゃねえか。もっと続けろ。俺はもっとおまえが詠む俳句が読みてえ」
「はい!」
 アリオスが待って期待を寄せてくれる。それだけでも、アンジェリークにはとても素敵な事だった。
 こうして、今、ここで生きている証が俳句として記録されていくのが、アンジェリークにはこの上なく嬉しい。
 もっともっと書きたい。
 自分でも、この世で生きて来た軌跡を、このような形で遺すことが出来るのが、何よりも嬉しかった。
「こうやって沢山俳句を作ることで、何か自分を遺せるような気がして嬉しいです」
 アンジェリークは純粋な気持ちで、本当に屈託なく言ったのだが、アリオスはそれを聞くなり、複雑な表情をする。
 まるで胸の奥から血が流れているような、そんな痛くて切ない顔をする。
 アンジェリークは胸が締め付けられ、瞳の奥に涙が滲んでくるのを感じた。
 それをごまかすかのように、外を見た。
 夕日が綺麗な朱を空のキャンバスに乗せている。天然の色は、なんて素晴らしいのだろうかと思った。
 滲んだ涙が夕日のせいに出来るので、ちょうど良い。
「綺麗ですね…。生きているっていう感じの色です」
「そうだな。ここでまた俳句は?」
「もう、先生は何でも俳句に結びつけようとするー」
「俳句クラブの顧問だからな。当然だろ?」
 アリオスが書けといった表情をわざとするものだから、アンジェリークもここは白々しさで対抗してみた。わざと拗ねるふりをする。
「夕日に願うと、何でも叶うんだってよ。おら、俺がおまえが書けるように願ってやったから、書け」
「やだ先生、それは虹でしょう! 私だったら、そんな願いよりも、もっと素敵な願いを言いますよー!」
 けたけたと朗らかに笑いながらも、アンジェリークは寂しさをそこに滲ませて向き直った。
「おまえだったら何を願う?」
 アリオスの言葉をすうっと喉に通すと、アンジェリークは姿勢を正した。
「一日でいいから、とても魅力的な大人の女性になって、情熱的な恋をしたい…」
 アリオスの顔が僅かに強張るのが解る。頬辺りが精悍に陰る。
 雲の流れも、グランドから聞こえる喧騒も、全てが時間を刻むことを止めてしまったような気分になる。
「…なあんてね…」
 アンジェリークは小悪魔のように舌をぺろっと出すと、いつものおどけた表情になる。
 だがアリオスの表情は、陰ったシリアスのまま動かない。
 ふたりに夕方の切ない沈黙が包み込んだ。重いのに、どこか甘い。
 時間を告げるチャイムが、ふたりの間を染み渡るように、味わいのある音を奏でる。
「…先生、時間で…」
 言葉も時間も止まる。
 戸惑うように触れるだけのキスが、アンジェリークの唇に下りて来た。
「せんせ…」
 声が出ない。酸素が不足し過ぎて、きちんとした言葉にならなかった。
 温かな腕に抱き寄せられ、白衣が擦れる音がする。そこからは温もりがじんわりと染み出て、心も躰も温めてくれた。
 アリオスが抱きしめてくれたから、背中に腕を回す資格が生まれたような気がした。
 戸惑う幼子のように、アンジェリークはアリオスの背中に腕を回す。想像していたよりも滑らかで、しかもしっかりとしたものだった。
 至福。そんな言葉では片付かないくらいに、ほのぼのとした幸福が、アリオスの背中から掌に伝わる。
「この俳句ノート、預かっていいか?」
 ベルベットのように艶と深みのある声に、アンジェリークはただひとつ頷く。
 しんみりとした沈黙に、胸の鼓動だけが激しく響いていた。

 恥ずかしさと何処かしら幸せを感じながら、アリオスとふたり廊下を並んで歩く。
 何だが顔を合わせられない。
 だが、じっと見つめてみたい気分になる。
 白い頬を紅に染めながら、アンジェリークがちらちらと見た時だった。
 ヒールのカツカツとした出来る女の象徴のような音を携えて、その女性はやってくる。
 見覚えのあるねっとりした真っ赤なルージュは、決してアンジェリークには選び取ることが出来ない色だ。
 予想通り、女のヒールはアリオスの前でぴったりと止まった。
「ごめんなさい。ここからは大人の時間なの。子供の時間はおしまい」
 映画の吹き替えで成熟な女性の吹き替えをする声優みたいに、半ば芝居じみたように女は呟く。
 アンジェリークの足はずんと鉛が填められたように重くなった。
「-----じゃあ、先生。さようなら」
 ちらりとアリオスを見たが、アリオスは応えないし、こちらを見ようともしない。
 ああ。そう言う事か----
 アンジェリークは涙が滲むのを何とか止めて、アリオスに一礼すると、重い足を引きずって下駄箱に向かう。
 もう目の前が見えなくなっていた。

TO BE CONTINUED
コメント

愛の劇場です。9回目です。
久しぶりに教師と教え子。
頑張ります。




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