15
時間は誰でも平等に流れているというのに、持っている時間は、決して平等ではない。 アンジェリークとユーイ。ここにいるふたりは、同じ世代なのに、極端に持っている時間の長さが違う。 持っている命の蝋燭がユーイは長いだろうに、アンジェリークはもう燃え尽きようとしている。 アリオスはそんな不条理を思いながら、ふたりを見つめた。 「あっ! いけねえ! 俺ちょっと抜ける! 水泳部の中途半端ミーティングが開かれるんだ!」 時計を見ながら、ユーイは慌てて準備をする。 「何だよ? その中途半端なミーティングって」 「みんなでお好み焼きを食う会合なの!」 「そりゃ、ミーティングじゃあねえだろうが」 アリオスが苦笑すると、ユーイは笑いながら、まるで物語に出てくる猿のように、教室から出ていった。 「しょうがねえな。今日はこれでお開きだ!」 俳句クラブメンバーから一斉に歓声が上がり、誰もが立ち上がる。アンジェリークも肩までの栗色の髪を、ゆらゆらと揺らして、楽しそうに立ち上がっている。 アンジェリークにとっては、こうして立ち上がるだけでも、煌めいた特別な時間なのだろうか。 アリオスは、アンジェリークの一瞬、一瞬を、まるで千の心があるように、脳裏に閉じ込める。 じっと見つめていたせいか、アンジェリークがアリオスに近づいて来た。 「先生、明日からちゃんと先生の所に行きます。嫌がってもそうするつもりだから、覚悟して下さいね」 背伸びをして、こまっしゃくれた小悪魔みたいに笑っている。いつも以上に少女らしい明るい笑顔が、なぜか生き急いでいるような気がした。 「ああ、解った」 アンジェリークが何の蟠りもないかのように、こうして近づいてきてくれる。 無視されるとすら思っていたので、アリオスには嬉しかった。 「お手柔らかにな、コレット」 「はいっ!」 アンジェリークは明るい表情を浮かべながら、スカートの裾を翻して駆けていく。 それがアンジェリークの”別れのシグナル”であることを、アリオスは敏感に感じ取っていた。 教室の戸締まりを済ませて学校を出ると、レオナードとエンジュが楽しげに先を歩いているのが見えた。 ふたりは困難を克服した、見事な絆を持つ恋人同士だ。 後ろから見ていても微笑ましいお似合いのふたりが、アリオスは羨ましかった。 「おう、アリオスじゃねぇか?」 「アリオス先生、こんにちは」 エンジュはレオナードと手を繋いでいることを恥ずかしそうに隠そうとしたが、レオナードがあえて見せ付ける。 「んな、隠す必要はねぇよ。エンジュ」 「そ、ですか」 いくらかからかいを含んだアリオスの声に、エンジュは本当に恥ずかしそうにはにかんでいた。 「おまえらホントに仲が良いな…」 アリオスがしみじみと言うと、ふたりは顔を見合わせた。見つめ合う眼差しには、お互いの信頼や愛情が含まれている。 「アリオス先生もアンジェと仲が良いでしょ? ふたりはひとつなんじゃないかって思うことがあるもの。アンジェが落ち込んでいる時は先生も落ち込んでいて、アンジェが明るい顔をしているときは、先生も明るいの」 エンジュはころころと笑いながら、逆にからかい返しているようだ。嬉しい指摘ではあったが、アンジェリークとの関係を考えると、複雑な気分だった。 「おまえらみてぇな、ニコイチな関係なんかじゃねえよ」 アリオスは明らかに弱音めいたことを、ふたりに吐き出していた。心の奥の切ない叫びが、そのまま言葉になってしまっている。 「アリオス…。それはおまえがまだ、何かにこだわって、ハードルを越えていねぇからだろ?」 煙草を口にくわえながら、レオナードはあっさりと言い切る。辛くてもじっと耐え、一生にたった一つしかない素晴らしい恋を手に入れたレオナード言葉はかなり重かった。 「アリオス、壁を越えたら人間楽になるぜ? 俺達は一緒に壁を越えることで、幸福になれたんだからな」 「ああ」 レオナードの笑みを見ていると、一年ほど前に苦しんでいた表情が嘘のようだ。摂食障害であったエンジュを、根気よくケアをし、遂にはその心の病ですらも克服させたのだから。 その時のレオナードは、イラチ体質が考えられないぐらいに、根気があった。文字通り、総てをかけてエンジュにぶつかり、悔いのない恋をしたのだ。今もその恋のまっただ中にいて、まるで桜のトンネルを抜けていくように幸せそうだ。 「んなこと、俺様が言うがらじゃねぇけれどな。ホンモノの恋には、タイミングは必要だ。運命がしかけたタイミングが。取りのがしたあと、後悔だけは避けたかった。後悔したところで、何にも掌には残らねえんだからな」 確かにレオナードの言う通りだ だが、今のアリオスには飛び込む勇気がない。壁を潰してしまえるだけの力もない。 それは机上の理想論にしか見えなかった。 自分ひとりで暗い気持ちになると、この幸せなカップルの前では気まずくなってしまう。 「じゃあ、俺はお先に。せいぜいガンバレよ、レオナード」 肩をぽんぽんと叩くとアリオスは家路に急ぐ。 「せいぜい体力が続く限りは勤しむぜぇ。おまえに言われなくてもな」 「バカっ! レオナード!」 エンジュの恥ずかしそうな声が何とも印象的だった。 アリオスはひとりになり、明かりが薄く灯る部屋で、心臓外科手術の最新論文を広げている。 心臓に出来た悪性腫瘍を取り除く事例を、くぎづけになって見つめる。穴があくほどそれを見たとしても、その手は震えていた。 手が震えてきっと役に立たないだろう。 アリオスの手は無意識にメスを持つ動きをしているが、その先はぎこちなくなっている。 ------現場が怖い。 だから、総てと思えたものを失った後、”保健医”という、逃避を選んだ。 もう二度と、目の前で愛するものを失いたくはなかったから。 だが、今度も、目の前で失ってしまうかもしれない。 以前は手を差し延べ過ぎて。 そして今度は手を差し延べな過ぎて、失ってしまうのではないだろうか。 アリオスはジレンマを覚え、自分の胸が激しく痛むことを感じた。 締め付けられる痛みは、アンジェリークの心臓の痛みなのかもしれない。 アンジェリークが切なく思っているからかもしれない。 既に失っているかも知れない相手を、アリオスは強く想う。 もう、目の前で誰かを失うのは沢山なのに、アリオスは手が動かない自分を呪った。 久しぶりに、夢を見た。 周りが一面の白だ。 何もない、ただ無駄に眩しいだけの空間。 そこにアンジェリークがいた。白いワンピースは、まるで天使の衣服のようで、とても似合っている。 ただ笑って手を振っている。アリオスが追い掛けようとすると、アンジェリークは後ろ手にして、スキップをし始める。軽やかなリズムに、アリオスはどのようにしても追い付く事が、出来ないでいた。 「アンジェリーク…!」 その名前を呼ぶと、立ち止まって振り返ってくれた。 だがその横に現れた、同じ栗色の髪をした少女にアリオスは愕然とする。 少女はアリオスに落ち着いた静かな笑みを浮かべた後、アンジェリークを腕の中に招き入れる。悪夢だ。 アリオスは阻止しようと魂の奥底から叫んだ。 「エリスっ…!!!」 アリオスは自分の声で目が覚めた。 息を整えなければならないぐらいに乱れている。パジャマ代わりに着ている純白のTシャツは、背中の部分がぐっしょりと濡れていた。 「…何で今頃、エリスが夢に出て来るんだよ…」 アリオスはらしくもなく大きな溜め息をつくと、側にある煙草を手に取った。口に運ぶ指が震えている。 「アンジェリーク…」 名前を呼びながら、アリオスは煙草に火を付けた。外を見ると、まだ薄暗い。時計を見ると本来起きる時間には、まだ早いようだった。 夜明け前というのは、”あの世とこの世が交錯する時間”だと、聞いたことがある。 アンジェリークとエリスが共にいたのも、そんな時間だったからだろうか。 アンジェリークが生死の端境にいる? そんなことは信じたくはなかった。 アンジェリークにはまだまだ残された時間が長いのだと信じたい。 「アンジェリーク…」 呼んでも返事がないのに、ついその名前を呼んでしまう。 アリオスはこんなに動揺している自分を、情けなく感じていた。 「エリス…。おまえを助けられなかった俺を、おまえは嘲笑うのか? また、あなたは助けられなかったのね、って…」 久し振りに見たエリスの夢は、アリオスに封印したい過去を思い出させる。 エリスを失った時のあの切ない笑顔を、アリオスは決して忘れることは出来ない。 生々しい記憶が、アリオスの脳裏でコラージュされていく。 煙草の煙を宙にはきながら、アリオスは呪う。 己の心の弱さを。そして、一歩踏み出すことが出来ない自分は、命を預かるものとしては失格のような気がした。 結局、アリオスは朝まで眠ることは出来なかった。自分の臆病な部分と向き合いながら、夜が明けるのを待った。 朝、いつもより早く来たつもりなのに、既に扉の前には誰かが姿勢良く待っていた。 最初は眩しくて解らなかったが、直ぐに誰かを判断出来る。 そこにはアンジェリークがにこやかな表情で立っていた。 「アリオス先生、今日は一日保健室自習で構わないですか?」 微笑んだアンジェリークの表情は、今までで一番清らかで澄んでいた。 アリオスはこの時、心のどこかで、これが最後の授業になることを、切なく予感していた------ TO BE CONTINUED |
| コメント 愛の劇場です。15回目です。 あと2回でようやく山の中腹と言ったところに差し掛かります。 |