Rainbow Connection

16


 アンジェリークがちょこんと席につく。この風景をずっと夢見ていたのかもしれない。
 アリオスは、胸の奥が切ない色に彩られるのを感じながら、席についた。
 いつものように仕事をしなければならないと思うのに、何故だが妙に浮足立ってしまう。
 側にアンジェリークがいるだけでこんなに違うのだろうか。
 やりがいやときめきが。
 生徒たちの健康チェックカルテをみながら、細かい作業を始める。するとアンジェリークがじっとこちらを見ている事にアリオスは気付いた。
 子供が大人の仕事を垣間見たくてうずうずするような状態だ。
 純粋で素直な瞳に、アリオスの心は動かされる。こんなに純粋な気分で誰かを思ったことを、アリオスはないような気がした。
「…あんまり見るな気が散る」
「ケチ! 見たって減るもんじゃなし」
「…おまえ、そのおっさん思考をどうにかしろよ、ボケ」
「おっさんじゃないもん! きちんとした乙女だものっ!」
「はいはい」
 一言、一言反論してくるアンジェリークが可愛い。百面相の表情を見ているだけで楽しい。
 アリオスは無意識に喉を鳴らして笑っていた。
「ったくホントにおまえは見ていて飽きねぇ女だよ」
 アリオスはすっかし仕事をするのを忘れてしまうほど、アンジェリークといるのが楽しい。
 アンジェリークが宝石のごとく輝かせている表情のひとつ、ひとつを丹念に見るのが好きだった。
 この心のアルバムに、アンジェリークの一瞬、一瞬を閉じ込めておきたいとすら思う。
「アリオス先生。先生だって、私をじっとおやぢみたいに見ている…じゃない? 止めて欲しいんだけれど…」
 はにかむように言うアンジェリークが可愛い。何気ない表情であっても、本当に見事なほどにアリオスを引き付ける。
「いいじゃねえか。減るもんじゃねえし」
「だからおやぢって言われちゃうんですっ!」
 ぷりぷり頭から湯気を出して怒るアンジェリークは、本気で愛らしいと思う。からかうだけで楽しい女は、久し振りだ。
「だっておまえよりも俺は11も、一回り近くも年上だからな」
 アリオスが自分の年齢を茶化すように言いながら、アンジェリークに笑いかける。すると少し真面目くさった顔でアンジェリークはぶるぶると顔を横に振った。
「そんなことないよ!先生は充分に若くて、可愛い…」
 そこまで言ったところで、アンジェリークは自分が大それたことを言ってしまったことに、慌てた。まるで、人形のように手足をじたばたとするアンジェリークが、かなり可愛い。アリオスは玩具みたいな可愛いさを充分楽しんだ。
「アリオス先生がへんなことを言うからよっ!もう、知らないっ!」
 アンジェリークはひとりで大騒ぎなぐらいの反応をしてくるのが楽しい。
 なのにこんなに素直なアンジェリークが消えて無くなるかもしれない。
 楽しい雰囲気に水を注すような自分の思考を、アリオスは慌てて否定をする。
 そんなことはあってはならないのに。
 自分で何かが出来ればと思わずにはいられないのに、何とか出来ずにいるのが切ない。
 急に黙り込んでしまったアリオスを見て、アンジェリークは不安げ顔を覗きこんできた。
「アリオス先生…?」
 大きな青緑の瞳を潤ませて、アンジェリークは小首を傾げて心配そうにする。
「何もねえよ」
 アリオスは自分の手ですっぽりと隠れるような、アンジェリークの小さな頭を撫でつける。切ない温かさが、手の平から伝わってきた。
「おまえも同じことを言っただろうが。だから、仕返し」
 にっと、わざとごまかすような笑顔を向けながら、アリオスはふざけるように言う。すると心配そうなアンジェリークの表情が、みるみるうちに、怒りモードに変わってしまった。
「もう、アリオス先生のバカっ! 心配したんだからねっ!」
「おら、おまえも勉強しろ。俺も仕事に戻るからな」
「はあい」
 アンジェリークは姿勢を正したものの、躰をアリオスに向けるのは止めない。まるでアリオスを見るのが仕事かのように、頬杖をついて見ている。
 幸せそうに見えて、瞳の奥には消しきることが出来ない愁いがあった。
 アリオスはそれから目を逸らすことが出来ない。
 生命だとか時間だとか、そんなことなど超越してしまった美しさが、アンジェリークにはある。その姿はまるで、時間を超越してしまった絵画や彫刻のようだ。時間が限られたものが見せるときめきなのだろうか。
 アンジェリークの視線を追うと、そこから見える庭の様子を眺めていた。
 アリオスの席からは、四季折々の植物を愛でることが出来る。それをアンジェリークは楽しんでいるように見えた。
「ここは季節満載ですね…。命の摂理が解るわ…。産まれて生きて死んで…。ただそのくりかえしだけ…。いつの時代も、どんな時も…」
 アリオスは答えられない。虫のような小さな生き物は、四季で生命のサイクルをくりかえす。
「たった一度しか体験出来ない四季だから重要なのかもしれないわ…。たった一度でも四季は体験出来ない生き物もいるけれど…、だけどこの自然の風景は、命と密着している…」
 アンジェリークの言葉は、本当にひとつ、ひとつが重い。時間という名の命が込められているから。
 アリオスはいつのまにか、アンジェリークと同じ視線で外を眺めていた。
 何故だかいつもとは違った風景に思える。いつも見馴れた風景が、写真集でも眺めるような素晴らしい風景に思えた。
「確かにここは季節を感じるな…」
「初めて知ったみたいに言うのね、先生は」
 アンジェリークは驚くことなく淡々と呟いている。何だか総てを悟ったもののような雰囲気があった。
「ああ。知らなかったさ。実際な」
「それは先生が、ちゃんと人生を生きてはいないからだわ」
 アンジェリークのドライでクールな声は、充分にインパクトがある。アリオスは痛いところを突かれてしまい、しばし、呆然としていた。
「…生きてない…か…。確かにそうかもしれないな…」
 アリオスは自嘲気味に笑いながら、素直にアンジェリークの言い分を認めた。その通りだったからだ。
「私にとっては、季節を感じるのはとても大切なことなの。同じ季節を何度も迎えられたと思うだけで、最高にご機嫌だもの」
 アリオスは呼吸が出来なくなるかと思うぐらいに、胸が激しく痛むのを感じた。ただアンジェリークを見つめるだけ。立っているのも精一杯なほどに痛みが全身を走り抜けた。
「…私にとっては、季節の流れが凄く貴重なんだ。次も同じ季節を本当に迎えられるのかと考えるから…。この春も今年が最後かもと思って、精一杯感じているの」
「…最後って人事みてえに言うんだな…。おまえは恐くねえのかよ…?」
 アリオスは平常心のままでいるアンジェリークを、じっと見る。羨ましいぐらいに冷静な少女に、軽い嫉妬を覚える。自分がこんなに強くあれたら良かったのに…。
 暫くアンジェリークは黙っていたが、やがて薄く笑った。
「…思っているわ。私も死ぬのは恐いわ…」
 眉をへの字に曲げて、目の前にいる少女は切ない顔をしている。大きな瞳は、今にも涙が溢れてきそうだ。
「…恐いわ…。ある日突然自分が跡形もなく消えてしまうことを想像すれば、本当に恐いわ…。私はその瞬間を、確実にここでは一番早く迎えてしまう…」
 アンジェリークの唇も肩も震えている。アリオスは見ているだけで、心から血が流れているような気がするどうしようもないぐらいに哀しい気分だ。
 だがアンジェリークはふと微笑んだ。
「でもね、アリオス先生…。私が死を怖がり、死のことを沢山考えるのは、私が誰よりも命を大切に思っている証です。たとえ残り少ないとしても、胸を張って堂々としている証だもの。だから私は生きるの。一生懸命生きるの。誰にも負けやしないわ。本当に…」
 アンジェリークは誰よりも潔い生き方をしているように、アリオスには見える。
 自分のほうがかなり年が上だと言うのに、この少女のほうが余程しっかりとした生き方持っている。
 アリオスは情けない気分になった。
「…なあんてね。先生、もう始業だから自習を始めますね」
「ああ」
 アンジェリークはくるりと向き直り、真っ直ぐ背筋を伸ばして勉強を始める。
 アリオスはアンジェリークを見つめながら、ふと考えこんだ。
 誰よりも命を大切にしている。
 その言葉がかなり重くのしかかっていく。
 アリオスは自分の生き方がいかに雑であったかを感じずにはいられなかった。


 結局、アンジェリークは、一日保健室で過ごした。アリオスも特には教室に戻れなどとは言わず、ふたりで静かな時間を過ごした。
 午後になると雲行きがあやしくなり、鈍色の空に割ってしまっていた。梅雨空に近い状態だ。
「さっきはあんなによい天気だったのに、いきなりこれかよ」
 アリオスは窓を眺めながら、うっとうしさの余りに顔をしかめた。
「もうすぐ梅雨だからでしょうね」
「ああ。鬱陶しい季節だぜ」
「でも私は好きですよ。大切な想い出が詰まっているから」
 アンジェリークはまるで宝物を慈しむかのように呟く。その声のトーンだけを聴いても解る。その想い出に、自分との日々も加えてくれるのだろうかと、アリオスは考え、そうなって欲しいと切に祈った。
「大切な想い出?」
 アリオスが聞き返したところで、本日の最終コマである6時間目が終わるチャイムが鳴った。
 同時に夕立が激しく降り出し、雷を伴う。まるでスコールだ。
「こりゃあすげぇな。ここも熱帯雨林気候に近付いてるのだろうな。あ、コレット。止むまでここにいろ」
 アンジェリークは返事もせず夢見るように窓の外を眺め、懐かしそうな表情を浮かべた。
「…先生と初めて逢った日もこんな雨の日だったわ…」
 アリオスは可笑しなことを言うと想い、眉根を寄せる。
「おまえと逢ったのは、あの桜が咲く日が最初だったはずだろ?」
 アリオスが険しい声で言うと、アンジェリークは哀しそうに笑い、首を横に振る。その笑顔ははかなく、今にも消えてしまいそうだ。
 アンジェリークは穏やかな表情のまま、静かに立ち上がった。
 まるでかぐや姫が月に帰るような神々しさだ。
 そう。天使は雨の中、あの雲の向こうに戻っていくようだ。
「…さよなら、先生…。私は夕立の日に隠れているのよ…」
「おい! コレット!」
「素敵な想い出を、有り難う…」
 アリオスが止めようとしたが、アンジェリークはまるで空に飛び立つように保健室から出ていく。
 それが、アリオスが学校で見た、アンジェリークの最後の姿になった。

TO BE CONTINUED
コメント

愛の劇場です。16回目です。
折り返しです。




back top next