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アリオスは学校の自転車を持ってきた。 ごくごく普通の自転車は、雨風にやられたのか茶色い錆で着飾られている。 「おまえはここから比較的に近い所に住んでいるらしいから、これで充分だろ? 地図も貰ったから、ナビもいい」 「はい…」 腕にしっかりと抱きしめることが出来ない、水のような実体がないアリオスが、アンジェリークには痛い。姿を見るだけでも思い詰めたられたように焦燥感に襲われ、唇を噛んだ。 「おら、後ろに乗れ」 「はい」 自転車の荷台に座り、アンジェリークは戸惑いながらその腰に手を回す。ここにはがっしりとした無駄のない筋肉を付けているアリオスがいるはずなのに、まるで空気や液体に捕まっているようだった。 温かいのでお湯なのかもしれないが…。 アンジェリークがしっかりと捕まるのを確認してから、アリオスが自転車を漕ぎ出した。ぎしぎしと軋んだ音を立てる自転車は、まるで自分の心の音のように思う。 アリオスがどんな男女関係を結ぼうが、アンジェリークにとっては関係がないと、何度も自分に言い聞かせているのに、やはり痛い。 心には”喜び”と言う名の、潤滑油が足りない。 アンジェリークにはとうに無くなってしまったものだ。 桜並木を抜けながら、アンジェリークはアリオスに捕まる手を握りこぶしにした。 自転車が進むに連れ、鼻孔に桜の遠慮がちな清々しい香りが、切る風に乗って入ってくる。 アンジェリークはそれを精一杯吸い込み、舞い散り始めた桜の花びらに一瞥を送った。 「…散った桜は、幸せなのかな…。役目を終えてどこに行くんだろう…」 無意識に出た言葉が、アリオスにブレーキを踏ませた。 「アンジェリーク?」 アリオスは低い声で呟くと、こちらに振り返ってくる。 「…自分の務めを終えて、次の役目までまた眠りにつくだげだ。来年の春、また、勤めを果たしにやって来る」 アリオスは淡々と感情無く呟いたので、まるで大根役者のような意志のなさを感じた。 「…人間は自分の務めを終えて肉体が滅んだら、いったいどうなるんだろう?」 アリオスは答えない。 ただ背中が酷く強張ったのを、アンジェリークは見逃さなかった。精悍で誰をも護れるような背中が、無になる。 また、水のように冷たくなったと、アンジェリークは思った。今のアリオスには、”ひと”を感じない。 「無になるのかな…。消えてなくなっておしまい。遺るのは、骨と灰だけ…」 ふたりの間に、桜吹雪が舞った。強い風は、木から花びらを一気に取り去って自分のものにしてしまう。 桜吹雪が決して美しいものではなく、胸の奥に刺さる刺のようなものだと、アンジェリークは感じた。それも花びらの数だけトゲがある。 ぶわっと耳を巻き込む音は、確実にふたりの間に影を落とした。 「今日のおまえは、マイナス思考らしな。気分の悪さはそれが原因じゃねえのか? 俺が治してやる」 「え、先生!?」 突如、アリオスが自転車の向きを川の土手に向けたので、アンジェリークは焦った。 「先生、そっちは私の家の方向じゃ…」 「んなことは解っている」 アリオスは少しキツメの声で、早口で言うと、自転車の速度を早めた。 油の足りない車輪は、相変わらずきいきいとけたたましい音を立てていたが、アンジェリークにはそれが愉快で堪らなかった。 今度は苦しいくせに楽しくて、一生懸命に思える音だ。まるで自分のようだと、アンジェリークは思わずにいられなかった。 アリオスは近くの土手に自転車を置き、その近くに腰掛けた。 「何か飲むか? そこにコンビニがある」 「甘くて温かいものが…」 「ああ」 アリオスはぶっきらぼうに返事をすると、土手の向こうに見えるコンビニに、走って行ってしまう。 本当に水のような男だ。実体はないくせに、掴め無い。 本当のアリオスを知っている人間など、いったいどれぐらいいるのだろうか。 ぼんやりと土手の下を流れる川を眺めながら、アンジェリークはふと考えた。 「おら」 「あつっ!」 ぼんやりとしていると、頬に温かな缶を押し当てられる。ほんのりとした刺激に、アンジェリークは口を尖らせた。 「甘くて温かいもんなんか、ミルクティしかなかったぜ」 「充分です。どうも有り難うございます」 アンジェリークはそれを受け取ると、大切なもののように思え、缶を何度も撫でる。 「…俺は、死んだら、何も無くなるとは、思いたくねえな…。ただ、魂磨きを終えて、肉体から出るだけだと思いてえけれどな」 アンジェリークは優しい眼差しに自分がなっていくのを感じる。 ここにいる人は、きっと色々と欲しい言葉をくれて納得させてくれるだろう。肝心の一言以外は…。 ふとアリオスを見ると、どこか自分に言い聞かせているようにも見えた。 アンジェリークは、寂しくそして深い闇にも似たものをうちに秘めているだろう横顔を、じっと見つめた後、春の川を見た。 子供たちがザリガニ取りにせいを出している。優しい喧騒だった。 ザリガニを取った思い出を辿りながら、アンジェリークはふと不思議なたとえをに思い至った。 「だったら、魂と肉体は、ザリガニみたいなものなのかな!」 「何だそれ?」 アリオスは唐突に何を言い足すのかと、奇妙な顔をしている。 「だって、ザリガニとかって大きくなるたびに脱皮したりしますよね? 魂にとって、肉体って同じかなあって!」 アリオスの眼差しが僅かに綻んだ。どこか寂しかった影が、みるみるうちにこそぎ落ちていく。 「そうだな…。そうかもしれねえな…」 アンジェリークは深呼吸をしながら頷き、自分の心臓が、先ほどの自転車の車輪のように、苦しいくせに喜んで動いているように思えた。 ミルクティを一口飲む。信じられない程に、美味しく感じた。 「先生、これ美味しいです!」 「そいつは良かったな」 アンジェリークは頷くと、またミルクティを飲む。気分の悪さがみるみるうちに消えて行くのを感じた。 馬鹿らしい嫉妬をして気分を悪くするより、こうして素直にアリオスにかかわいがあったほうが良い。 「アンジェリーク、おまえにすげえよく効く薬を処方してやるよ」 「何ですか?」 アンジェリークは自然とにこにこしながら、遠慮なくアリオスに手を出していた。 手のひらに乗せられたのは、紛れもなくドロップのかんかんだった。これにはアンジェリークも瞳をまるくする。 「ドロップ!」 「子供騙しだなんて笑うなよ」 アリオスの白目や目の回りはほんのりと桜色になっていて、これを買うのがかなり恥ずかしかったことが伺い知れる。 アンジェリークは本当に嬉しかった。先程までぎすぎすとした油の足りない音をしていたアンジェリークのハートは、すっかりご機嫌を取り戻していた。 「有り難うございます! 早速、お薬を頂きますね!」 アンジェリークはがさがさと缶周りにがっしりと貼付けられているテープを剥がして、慎重に缶を開ける。細心の注意を払わなければ、折角のドロップが飛び出てしまう恐れがあるのだ。 「有り難うございます。本当に嬉しいわ」 缶の中には、毒々しい程にカラフルなドロップたちが、肩を寄せるようにして入っている。陽射しにそれらを透かせると、宝石や星の煌めきのように光り輝いた。 「指輪にしても、ネックレスにしても綺麗かも!」 「べとべとになって、おまえは蟻人間になっちまうぞ?」 アリオスは信じられないとばかりに眉間にシワを寄せ、それがまた深刻そうでアンジェリークには笑えた。 「そんなことしませんよ! でもそれぐらい綺麗だって、言いたかったんです!」 「解ってる。んなことぐれえはな」 「じゃあ、お薬を頂きます!」 「変なたとえだな、それも」 アリオスは苦笑しながら、アンジェリークがドロップを食べるのを見守ってくれる。 アンジェリークは、空の色と同じドロップを選んだ。 「きっと効きますよ!」 アンジェリークは口にそれをほおりこむと、味わい深く舐める。 口の中に広がる甘味は、不思議な威力を持っていた。味は甘くて美味しいのに、今までで一番の特効薬に思える。 「美味しいです。どんな病気にも効きそう」 アンジェリークはそこまで明るく言って、軽く呼吸をする。 たとえ私の病気だとしても…。 笑おうとしても顔が少し引き攣ったが、務めて晴れやかになるようにした。 「ホントにこの飴は美味しい…」 ポツリと呟くと、アリオスがそっと肩を叩くと、背中がほんのりと温かくなるような気がした。 今なら何でも訊けるような気がする。 「…先生、さっきの綺麗なひとは恋人?」 「恋人じゃねえ。”恋人”って称号は、愛し合っているものが持つのが相応しい」 アリオスはまるで心がそこにないように呟く。他人事のように。空々しく響いた。 「抱き合ったりしていても?」 「-----抱き合ったり、キスをしたり、そんな行為だけでは恋人同士だとは言えねえ」 透明の文鎮みたいな重くて軽々しく透き通った声。ひねくれとも違ったアリオスの言葉は、アンジェリークの心に何度と混乱を与える。 恋人でないことには安心したが、だが、アリオスにとっての恋人の定義は何なんだろうか。 だがアンジェリークもそれ以上訊けなくて、結局黙りこくる。じっとふたりして春の景色を見つめた。 静かな春の音が、周りを特別な空間にさせていた。 結局ふたりは押し黙ったまま夕陽を見送り、アンジェリークは再びアリオスの操る自転車の荷台に乗り込む。 沈黙が、大きな岩盤のように重くのし掛かる。 自転車が揺れる度に、鞄の中にあるドロップが音を立てて跳ね上がるのが聞こえる。 何だか、空々しい音のように思えた----- TO BE CONTINUED |
| コメント 愛の劇場です。5回目です。久しぶり更新。 久しぶりに教師と教え子。 頑張ります。 |