Rainbow Connection

7


 その日は雨が降っていた。
 母親にはリスクの高い雨天には、学校に行くのは止めなさいと言われたが、アンジェリークはそれを押して行った。
 ただでさえ貴重な学校生活の日々を、雨などで潰したくはない。
 神様からの贈り物のようなこのプロジェクトが終了するまで、あとわずかなのだから。
 そのせいか細心の注意をしっかりと払って、学校に出掛けた。
 今日は体育があるが、屋内なので体育館内で見学をすればいいだろう。保健室には、深い蟠りがあり、まだ足を向けるのが難しかった。
「寒い、花冷えね」
 アンジェリークは庇の下を歩きながら溜め息をつくと、教室に向かって歩き出す。
 ふと濡れた桜の花びらに意識を奪われ、それを見上げた。
「これは、散ってしまうかもしれねえな」
 聞き慣れたはずなのに、まだ気持ちが激しいダンスをする。
 潔癖な世代であるアンジェリークは、上手くアリオスを見ることが出来なかった。
「もう、青葉も出ていますから、散るのは時間の問題だったかもしれませんね」
 アンジェリークはなるべく顔を合わせないようにして、雫が垂れる桜の花びらを見上げる。美しいと言うよりは、刹那的な狂気を感じた。
「また、保健室で待ってる」
 アリオスは肩をぽんと叩くと、アンジェリークの横を擦り抜けて行ってしまう。
 白衣のアリオスの綺麗な背中を見つめながら、桜と同じ雰囲気を感じた。
 いずれはこの指先からすり抜けてしまうもの-----本当は自分が先にすりぬけてしまうのかもしれない。

 体育の時間になっても、アンジェリークは保健室には行かず、隅で見学をしていた。
 クラスメイト達を見ていると、同じ場所にいて、同じ空気を吸い込んでいるはずなのに、別世界の雰囲気を感じる。
 同じ歳の環境も余り変わらない女の子が、可能性いっぱいの躍動感のある世界にいる。
 自分はと言えば、グレーの世界にいるだけだ。パジャマと言う名の囚人服から、制服という名の自由を象徴するものに着替えて、煌めいた世界にいても、自分は変わらないような気がして、哀しくなった。
 雨だから鬱になるのだろうか。昔、誰かが「月曜日と雨の日はいつも憂鬱」だと綺麗な声で歌っていたからだろうか。
 ぼんやりとしていると、少し躰が疲れているような気がした。
 重い。
 最近は、普通に学校に行き、普通に生活をしているから、疲れが貯まっているのかもしれない。
 こうして何事もなく学校に通えているとはいえ、ある程度の安静は必要なのだ。
 眠ろう-----理性ではなく躰が決定したことだ。従うしかない。
「先生、保健室に行きます」
 アンジェリークは一言添えると、のろのろと保健室に向かった。
 ノックをして入ろうとすると、アンジェリークと入れ代わりにあの女が出て来た。
 髪が僅かに乱れて、ルージュがはげている。
 何があの奥で起こったか想像が出来るだけに、また、胸が痛くなった。
「あら? あなた、いつも保健室にいるようだけれどアリオスに惚れてる?」
 唐突にドアの前で言われて、アンジェリークは言葉を失う。女のせせら笑う赤い唇だけが、瞳に焼き付いていた。
「……少し気分が悪いので、どいて頂けませんか?」
「そうね。私もあなたにとうせんぼうしているわけにはいかないもの。仕事中だから。じゃあまた」
 ひらひらと手を振りながら、女は横を擦り抜ける。同時に淀んだ空気を感じて、酸素不足を感じた。
 アンジェリークは、心も躰もずっしりと重い気分になる。
「アリオス先生、少しベッドを貸して下さい」
 アンジェリークの声が部屋に白々と響くと、アリオスが振り返る。
 少し驚いたようだった。
「アンジェリークか…。どうした、本日は遅刻か?」
「まあ、そんなところです…。屋内授業だったから、久し振りに見学をしたかったんです」
 曖昧に答えて、アンジェリークは奥のベッドに真っ直ぐと向かう。その後をアリオスが付いてきた。
「顔色が悪いな…。今日は早退したほうがいいんじゃねえのか?」
「後少しですから、大丈夫です。どうも有り難うございます」
 小さく囁いて、アンジェリークはベッドに潜り込んだ。
 アリオスと余り顔を合わしたくはなかった。
 顔を見ればあの女の子とを思い出さずにはいられなくなるだろうから。
 だが、アリオスはアンジェリークのベッドに容赦無く近付いてくる。厳しい眼差しをして。
「この間も言ったが、一度精密検査をしたほうが良いと思うぜ、俺は。かかりつけはヤブじゃねえのか?」
「大きな病院なのでそれはないと思います。…だけど、先生なら、治してくれると思うんだけれど…」
 アリオスが少し息を呑んだことは、アンジェリークにも敏感に解った。足音の気配もピタリと止まる。
「俺はポンコツだ。それにただの保険医だからな。期待すんなよ」
 アリオスが苦虫を噛んだような顔になっていることは、アンジェリークにも理解できた。
「だけど先生がいいの。いくら女たらしでも、先生がいいの。先生しか治せ無いのは解っているから」
 アンジェリークはきっぱりとした口調で言い、拗ねるように語尾を荒くした。
「そこまで買い被ってくれて、嬉しいけれどな。俺に頼るのはお門違いだ。知っている医者に検査を依頼してやることは出来るけれどな。それだけだ」
「検査をしなくても、私が自分の躰は良く知っているもの。平気よ。この私が大丈夫だって言っているんだから、大丈夫なんです。だから、病院に行けだなんて、言わないで下さい。アリオス先生だって、女の人をここに連れ込んでいることを言われたくないと同じに」
 アンジェリークは言葉がささくれ立って、ハリセンボンのようになっていることにも構わず続けた。
「アンジェリーク。俺がここで何をしようが、どうしようがおまえには…」
「関係ない。でしょ? 先生が私の躰を直せないなら、関係ないもの。だから、ほっといて下さい」
 アンジェリークは悔し涙が瞳にじんわりと滲んでくるのを感じる。だか悔しくて、そんな顔をアリオスに見せるわけにはいかなかった。
「勝手にしろっ!」
 アリオスが乱暴にカーテンを閉めるのを聞きながら、アンジェリークは唇を噛む。
 ひとりになるとぐったりとした。感情的になるには体力もいる。
 疲れた。これ以上は精神的にも肉体的にも話せそうにないかった。
 深く目を閉じ、躰と心を駆け抜けるやるせないものを、やり過ごすしかなかった。

 暫く眠り、なんとか体力をかき集めた後、アンジェリークはベッドから下りる。きちんとメイキングをして、カーテンの向こうに出た。
 ましろの部屋に出ると、眩しい余りに目を眇る。アンジェリークが心と躰にいる黒い悪魔と格闘している間に、何時しか雨は止み、空にはからっとした悩みのなさそうな太陽が、明るく張り付いていた。
「アリオス先生、お世話になりました」
 アンジェリークはぺこりと頭を下げた後、アリオスはいつものように保健室で休んだ証明書を書いてくれる。
 綺麗な指先の動きに、思わず見取れてしまった。
「おらよ。これを担任に渡せ」
「有り難うございます」
 しっかりと書類を受け取った後、もう一度窓の外を眺めると、そこには美しい虹が空に大きなアーチを掛けていた。
 空に浮かぶ希望に、アンジェリークは眦を綻ばせる。
「虹ですね」
「ああ。俺もおまえも、今日は良いことがあるんじゃねえのか?」
「だったらいいですけれど…」
 アンジェリークはふと寂しい気分を紛らわせる為に、わざと笑う。だがそれが輝かしく無いことぐらいは、解っていた。
「アリオス先生は虹は希望の象徴だと思いますか?」
 アンジェリークは七色の虹を一色ずつ確かめるように見ながら、何気ないふりをして呟く。
「何だよ、突然に。普通はそうだろうが。どう考えたって」
「私は天国への階段だと思うんです」
「天国への階段!?」
 アリオスが綺麗な柳眉を潜めたのは、直ぐに雰囲気で感じられた。きっと険しい顔をしているのだろう。雰囲気で解るというものだ。
「虹の階段はいつかは誰でも渡らなければならないものだって思うんです。それが遅くても早くても」
 消えかかる虹を見つめながら、アンジェリークは真摯な強張りを崩せずにいた。
「消えてきましたよ、もう。きっと誰かが渡りきったのでしょう。花道だから綺麗なのかもしれない…」
「おまえは寂しいたとえをするんだな」
 アリオスの表情も、かなりの強張りが消えないでいた。アンジェリークは深呼吸をして、穏やかに笑う。
「こんな綺麗な橋なら、自分の最期を予期していても、少しは慰められるかも…。逃げなくて済むかもしれません」
「んなこと、言うなよ。おまえはやけに死を語るな?」
 明らかにアリオスの声は不快に満ちていた。アンジェリークは構わず続ける。
「私が死を意識するのは、命を大切にしているからですよ」
 迷いなくすんなりと流れる水のように言うと、アリオスの顔が明らかに冷や水を浴びせかけられたような表情になった。
「大切にしてんだったら、もっと自分の躰を労れよ」
「そうですね…。じゃあ、教室に戻ります…」
「人生をそんな達観した目で見るな! おまえはまだまだこれからのはずだろう!?」
 アリオスのどこか必死さが含んだ真っ直ぐな言葉が、情熱の矢となって素早くアンジェリークの心に突き刺さる。
 アンジェリークは真っ直ぐドアに向かっていたが、思わず数瞬間立ち止まる。大きく一度はねた胸の鼓動が指先にまで伝わり、肌が粟立つ。
 表情が震えているのを知られたくなくて、アンジェリークはアリオスに顔を向けることが出来なかった。
「とっても良いエスケープでした。アリオス先生」
「ああ。今度はいつもみたいに爽やかに来てくれると、有り難いけれどな」
 虹を渡る前に、私はここに避難しているだけなのかもしれない。
 アンジェリークは自分の脳裏だけに、言葉を収めた。
 廊下を歩く途中に、消えそうな虹を見つける。
「綺麗な虹を私が渡る時に、先生は思い出してくれるかしら」
 思い出して欲しい。
 アンジェリークは虹に自分の心を贈り、微笑んだ。

 待っていて…。
 この最後の煌めきのようなプロジェクトが終わってしまえば、私は虹を渡ることになるのだから…。

TO BE CONTINUED
コメント

愛の劇場です。7回目です。久しぶり更新。
久しぶりに教師と教え子。
頑張ります。




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