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アリオスが作ってくれたシチューは、身も心もとろけてしまうほど美味しかった。あれほど美味しいものには、アンジェリークは出逢ったことはない。 あのシチューの件で蟠りが消えると一瞬思ったが、それはアンジェリークの希望的観測に過ぎなかった。 アリオスは相変わらず冷たいままだったし、最近は避けているのか、アンジェリークが起きている時間帯には帰ってこない。 余計に暗くてやる瀬ない時間をアンジェリークは過ごしていた。 恋でこんなに人間が消耗するのだとは今まで思ったことはない。恋愛小説にあるような精神的な消耗も、今まで、アンジェリークには絵空事のように思えていた。 だが、自分が実際に経験してみると、想像以上にきつかった。 「ホント、アンジェリーク、おまえ顔色悪いぜ? じいちゃんが作ったスペシャルドリンクを持ってきてやるぜ?」 「い、いい」 アンジェリークは顔を引き攣らせながら、ユーイに答えた。ユーイのじいちゃんのスペシャルドリンクは一度飲ませて貰ったことがあるが、その時はひどく具合が悪くなったのだ。具合の悪さは、味の気持ち悪さに帰依しているのだが。 「だったら錠剤にしてやろうか? じいちゃんがモロヘイヤとニンニクを細かく砕いてりんご、蜂蜜、人参を加えたカレー味の錠剤…」 アンジェリークは想像して気持ち悪くなってしまったが、錠剤なら何とか飲み干すことが出来るかもしれない。そんなことを考えて、ついつい受け取ってしまった。 貰った錠剤はユーイの友情だと思い、暫くは大切に持っていることにする。 だが、いくら優しい友情を感じて嬉しいと思っても、根本的なものが解決していない以上は、アンジェリークの気持ちもすっきりと晴れると言う訳にはいかなかった。 精神的な消耗が、肉体の消耗を産むということを、アンジェリークは改めて思い知らされる。恐らく、ユーイのじいちゃん特製のドリンクや錠剤を飲んでも、決して躰を回復するには至らないだろう。根本的なものから治療をしなければならないだろうから。 毎日、カレンダーを見ては溜め息を吐く。生理がきちんと来るのか来ないのか。アンジェリークはそんな日々も憂鬱でしょうがなかった。 生理は本当のところは来なければ良いと思っている。アリオスの子供が出来たとなれば、彼が言うようにしっかりとした婚約や結婚の理由が出来るから。 狡いかも知れないが、その考えも何度となく浮かんだ。 だが、アリオスの子供を身篭っていないとなると、確実に彼の側を放れなくてはならないだろう。 今ここに一緒にいられるのも、アンジェリークに妊娠の疑いがあるからだろうから。 アンジェリークは心から祈った。 こんなことを祈るのは、きっと頭がおかしいか財産目当てだと思われてしまうが、アンジェリークはアリオスの傍にいたいだけの気持ちで、深く祈るのだった。 神様…。どうか可愛い赤ちゃんを下さい…。私をアリオスの傍にいさせて下さい…。 アリオスの傍にいられて、愛されるには、子供の母親になるしかない…。 切なさと焦りが、アンジェリークの思考を奪ってしまっていた。 悶々とした日々の数日後、アンジェリークは”印”を見つけ、落胆した。生理が来てしまったのだ。 アンジェリークはこっそりとトイレで泣き、アリオスの傍にいる理由が何一つとして無くなってしまったことを悟った。 アリオスがああいう態度でいる以上は、もうここにいることは出来ない。 婚約者のふりも一通り終わってしまった以上、もうアリオスの傍にいる理由が何も見つからなかった。 明日…出ていこう…。 そう心に決めて、アンジェリークはその一日を過ごすことにした。 アリオスとはシチューを食べた日以来、何も話していないし、逢ってもいない。だからここから消えても何も思わないだろう。 そう思うと涙が出て来たが、アンジェリークは必死に自分に言い聞かせる。 自分には失うものは何もない。元々はこの場所で起こったことは全て夢で、何一つ自分のものであったことは有り得ないのだから。 元の生活に戻るだけだ。 また掃除婦に戻れば良い。 あの生活だって、アンジェリークにとっては幸せだったのだから。 アンジェリークはアリオスに手紙を認めた後、学校に行く。帰って来てから最後の晩餐を作って消えればいいのだから…。 今日は学校に通う最後の日だ。また、通信制に戻れば良い。しっかり頑張れば、こちらでも卒業することが出来るのだから。 アンジェリークは色々と自分にしっかりと言い聞かせたが、心は鈍色でどんよりとしていた。 アンジェリークは学校が終わり、いつものようにバスに乗り込んだ。 いつものようにアリオスのことばかりを考え込んでいたので、全く気付かなかった。 不意に急ブレーキがかけられる。車体が大きく揺れて、躰が浮き上がる。 ぼんやりとしていたせいで、何が起こったか、一瞬、解らなかった。 次に気付いた時には、バスの通路に横たわっていた。遠くからは救急車の音が聞こえる。 痛みは余りなく、打ち身とかすり傷程度だったが、そのまま多くの乗客と一緒に、救急車で病院に運ばれてしまった。 これじゃあ今日は計画通りに事が捗らない。アンジェリークはぼんやりとした頭でそう考えていた。 病院に行くと、馴染みの顔に逢って驚いた。フランシスだ。 「アンジェリークさん! バスで事故に合われてお気の毒に…。直ぐに診察しますからね」 「はい…」 知っている顔に診察をされるのは、ほんの少しだけ安堵を感じる。 アンジェリークはようやく躰から力を抜いた。 フランシスに診察をして貰っている間も、アンジェリークはアリオスのことばかりを考える。 事故が軽く済んで良かった…。 生きていれば、健康でさえいれば、いつかアリオスを見ることが出来るかもしれない…。 会えなくても構わない…。 ただ元気な姿を見られればそれで良い。 アンジェリークはこの事故をきっかけにして、心にある鈍い色が少しだけ解消されるような気がした。 「軽い打ち身と擦り傷ですね。後は、軽く足を捻ったみたいだから捻挫もありますが、大丈夫ですよ。湿布を張り替えたら一週間程度で治るでしょう」 「有り難うございます」 痛みも余りなかったので、軽症で心底ほっとした。 アンジェリークは深々と頭を下げて礼を言って立ち上がると、フランシスに制された。 「アンジェリークさん、お迎えを手配していますから、少し待っていてください」 「お迎え?」 「はい。アリオスです」 ニッコリと屈託なく微笑むフランシスに、アンジェリークは切ない表情をした。 確かに気遣いはとても嬉しい。アリオスに迎えにきてもらうのも、いつもの状況なら嬉しいだろう。 だが、今は違う。どちらかと言えば厄介者の自分が事故に遭うなんて、アリオスにとっては面倒なことだろう。 「フランシス先生…、私…ひとりで帰れますよ」 するとフランシスは眉根を寄せて困ったような表情をした。 「アンジェリークさん…、何があったかは知りませんが、少なくても貴女がそのような表情をされているのは、アリオスが原因ではありませんか?」 フランシスはにこやかな表情の中でも、ぴしりと鋭い一言を言い放つ。 アンジェリークは余りにもの的を得た指摘に、驚きの余り顔色を失う。 「貴女にとっての最高の処方箋をしたと、私は思いますよ。レディ?」 「でも…ダメなんです」 アンジェリークは言葉を淀みながら話し、少しオドオドとしてしまう。 一言話そうとすると、診察室のドアが勢い良く開いた。 「アンジェリークはどこだ!?」 アリオスが衣服を乱しながら、診察室に入ってくる。その表情は焦りと不安が色濃く出ていた。 「アンジェリークさんは無事ですよ。軽い打ち身と擦り傷、捻挫だけです。湿布をお渡ししておきますから、貼って上げて下さいね」 アリオスが見つめてくる。 焦躁と憔悴したアリオスの表情を見たのは初めてかもしれない。 「アンジェリーク…」 ただ名前だけを呼ばれただけなのに、アンジェリークは心の奥に染み通るほどの感動を覚えた。 「…アリオス…」 見つめるだけで涙が出そうになる。 アリオスはただ何も言わずに見つめてくると、しっかりと抱きしめてくれた。 「帰るぞ…」 「うん」 アンジェリークが返事をすると、いきなりアリオスに抱き上げられる。 「きゃっ!」 「世話になったな」 アリオスはそのままアンジェリークを抱き上げたままで、クールに診察室を出ていく。 「アリオス…、私、歩けるからさ…」 「念のためだ」 アンジェリークは顔から火が出るぐらい恥ずかしかったが、結局は、アリオスの腕が心地良くて、その身を任せた。 その後、交通事故ということで病院での手続きと、警察からの簡単な事情聴取があったが、面倒なことは総てアリオスがしてくれた。 時間はかかったが、アリオスが傍にいてくれたので、アンジェリークは苦にする事なく終わらせることが出来た。 そこからまた、誰もが見ているというのに、アリオスに抱えられて駐車場まで歩く。 時間が遅くなったせいかお腹が鳴ってしまって恥ずかしかった。 「腹減ったな。美味いラーメン屋に連れていってやるよ」 「ホント! 嬉しい!」 アリオスなりの気遣いが、アンジェリークには嬉しくてしょうがない。高級店だとアンジェリークが萎縮してしまう配慮だろう。 「俺は車でここまで来たが、おまえが嫌なら電車で帰っても構わねえぜ?」 「大丈夫、アリオスの運転なら…」 「そうか…」 アンジェリークはアリオスをもっと好きになっていくような気がする。 幸せで切ない時間が過ぎていこうとしていた。 |
| コメント タイトル通りのシンデレラ物語を書きたかったので書きました。 楽しんでくださると嬉しいです。 WEB拍手で、気に入っていると仰って下さった方がいて、すごく励みになりました。 励みがあれば、頑張ろうって思いますから。 どうも有り難うございますvv |