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「は…!?」 一瞬、アンジェリークは何を言われたか判らなかった。驚きの余りアリオスを見ることしか出来ない。 ”婚約者”。 耳を疑いたくなるような単語だ。 「おまえさんの優しさに甘え過ぎているのは解っているが、おまえさんに”婚約者”のまね事をして欲しい。すげえ失礼なことを頼んでいるのは、百も承知だが、頼めるのはあんたしかいねえんだ」 更にぎゅっと手を握られる。アンジェリークは烈しい胸の鼓動に喘ぐことしか出来ない。 「…アリオスさん…」 「頼む! 切羽詰まっているんだ…」 アリオスの不思議で魅力的な瞳に切なく見つめられると、アンジェリークは弱い。 「…どうして、急に”婚約者”が必要なんですか?」 「ああ…。俺が結婚することによって、凍結されていた財産相続の分与が始まるんだよ…。 そして、それには爺さんが死ぬ前に俺の婚約者を指名していたとかで、そいつと結婚すればっていう、馬鹿馬鹿しい条件付きだ。 誰も知らない相手だぞ。 一応調べたが、じいさんは7年も前に死んでるし、どこの誰かは判らなかったしな。 ったく、何でそんな訳の解らない遺言をしたのか解らないが、俺達家族も相当困っているんだよ。 で、何だか、勝手に”私が婚約者になります”とか”御祖父様の遺言のいいなづけは私です”とか…財産目当てに、色々と寄ってくる欝陶しい女たちがいる。それを巧みに操って、アルヴィースとの、結びつきを強化しようとするヤツがいたり、正直うんざりだ…」 アリオスは溜息をつくと、アンジェリークをじっと見た。 「おまえさんは、うち家のこととか、余り気にしないからな…」 アンジェリークは少しだけ惨めに思う。 アリオスの家がどんな名門かは全く知らない。名前を言われても全くぴんと来ない。そんな自分が、何だかいやだった。 「そう言う奴らからカモフラージュしてえんだよ」 カモフラージュ。言葉の響きに胸が痛かった。 「…そうだったんですか」 「ああ…。うちの家族は、爺さんの気まぐれに乗らなくても構わねえって言ってくれているが、問題は、周りさ。弁護士のエルンストを押し退けて、欝陶しい奴らが色々上げている。”うちの娘じゃないか、その娘は”ってよ。ったく、財産なんて俺はどうでもいいのによ。邪念の多い世の中だ」 きっぱりと男らしく言うアリオスに、アンジェリークは胸のときめきすら感じる。今時、お金のことを気にせずに、きっぱりと言えるアリオスが、男らしく魅力的に感じた。 「だからだ。インフルエンザの危機から救ってくれたおまえさんだから頼む。俺の婚約者のふりをしてくれねえか?」 更に手をぎゅっと握られる。 嬉しい半面少し苦しくもある。”ふり”。そこが最後までアンジェリークの心に引っ掛かっていた。 だが誰にもこの仕事をさせたくない。 恐る恐るその点を触れて見る。 「…私が受け入れなければ、アリオスさんは…、他の女性にこの役を頼むんですよね?」 「そうだ」 余りにもきっぱりとした答えだったので、アンジェリークは胸がキリリと軋むのを感じた。 他の女性がたとえふりだとは言えど、アリオスの婚約者になることは我慢できない。 「解りました、アリオスさん。その、私で良ければ、アリオスさんの”婚約者”になります」 苦しかった。普通はこんなに胸が傷むことはないだろうが、やはり好きになり始めた人と”解消”をゴールにした、婚約をするのは、辛い。 「サンキュ、恩に着る」 アリオスは握っていた手をいきなり唇にもってくると、軽くキスをしてきた。たかが手にキスをされただけなのに、心臓が飛び出してしまうほど震えた。 「あ…」 甘い声を一瞬上げると、アンジェリークの手はするりと離される。もう少しだけでいいから触れていてほしい。アンジェリークは心の中で切なく願った。 「それで、申し訳ねえんだが、婚約の事実を周りにリアリティを持たせる為に、短い間で構わねえから、ここで一緒に暮らして貰えねえか?」 「え…?」 アンジェリークは正直息を呑んだ。ここで暮らすのは、正直、戸惑いがある。 「そんな顔をしないでくれ。別におまえさんは俺と一緒に眠る訳ではねえからな…。俺の部屋の横に小さな部屋があるから、そこを使ってくれたらいい。生憎、ベッドはねえから、おまえさんの分をそこに入れておくから」 「ソファーベッドで充分ですよ?」 「そうはいかねえ。その部屋はおまえさんのプライベートスペースにしてもらって構わねえからな。それぐらいのスペースは儲けないと申し訳ないからな」 「はい」 アリオスのフラットで住む。嬉しい半分気が重い。いずれは解消してしまう婚約生活だ。きっとこの場所を去るときには、とてつもなく寂しく、辛くなってしまうことだろう。 そう思うと、かなり気が重い。 「おまえさんも、申し訳ないが、掃除の仕事を辞めて貰えないだろうか」 これにはアンジェリークは些か戸惑う。掃除の仕事が無くなれば、正直、食べてはいけない。 「…それは…。元の生活に戻った時に、食べて行くことが出来ません…。今の契約がなくなったら…。私が掃除婦であることが、今回の仕事に支障をきたすのであれば、私はお受けすることが出来ません…」 アンジェリークは唇を噛む。事実なのだからしょうがない。 「この仕事が完了したら、おまえさんにはちゃんと仕事を紹介する。掃除の仕事はすぐに優秀な後釜を見つけておくから心配するな。おまえさんが契約している会社にもちゃんと俺から話しておく。これだったら異存はねえだろ?」 きっぱりとアリオスに憂いの部分を解消するように言われて、アンジェリークは頷くしかない。 「…はい…」 どうしてこんなにアリオスを素直に信頼することが出来るのだろうか。 「アンジェリーク、おまえさんが嫌な思いをしねえように、俺もちゃんとするから、すまねえが、宜しく頼む」 もう引き返すことは、勿論出来ない。アンジェリークはアリオスに頷くと、決意を固めた。 「私も、アリオスさんが笑われないようにしっかりと婚約者の役をがんばります!」 「サンキュ」 アリオスの甘い微笑みを糧に頑張るしかない。アンジェリークはアリオスの為に、この仕事を最後までやり抜こうと決心した。 結局、夕食時までアリオスを看病し、アンジェリークは自分のアパートに帰った。色々と準備をしなければならないからだ。幸い、アリオスはすっかり良くなり、明日からの仕事には支障が出ないほどに回復している。 安心して家に帰ることが出来た。 とんでもないことをしたかもしれない。だが、どうしても他の女性にアリオスの婚約者役をさせたくはなかった。 当分の間、アリオスの家で暮らすことになってしまったので、とりあえずは当座の荷物をまとめる。 明日からの”婚約者”の仕事に一抹の不安を抱えながら、アンジェリークは眠ることにした。 翌日、家を出ようとして、呼び鈴が鳴ったことに驚いた。 恐る恐る覗き窓から見てみると、アリオスが立っている。今日はスーツ姿だが、彼らしく着崩している。それがまた素敵で、アンジェリークはくらくらした。 アンジェリークは驚いて直ぐにドアを開けた。 「アリオスさん! どうしてここに!」 「住所は解っていたからな。荷物があって大変だと思ったのと、おまえさんが逃げ出さないか見に来た俺は小心物だ」 驚いたようにアンジェリークがアリオスを見ると、意味深に含み笑いをする。 「行こうぜ。荷物はそれだけか?」 「はい」 返事をするとアリオスは手を差し延べる。 「持ってやるよ」 「あ、有り難うございます」 アンジェリークは恐縮しながら、アリオスに荷物を渡す。何故だか、華やいだお姫様になった気分だった。 「アンジェリーク」 「はい」 「ここから一歩出たら、おまえは俺の”婚約者”だ。敬語は使うな、一切。本当に愛し合っているように接してくれ」 見つめてくるアリオスの瞳は真剣そのものだった。アンジェリークはそれに負けてしまい、頷くしかない。 「解りました…。アリオスさん」 「”さん”はいらねえ」 不機嫌そうに呟くアリオスに、アンジェリークは頷くしかない。 「解りました、アリオス」 「敬語もNGだぜ」 アンジェリークはそんなことをしてもいいのかと思いながら、呼吸をして言う。 「解ったわ、アリオス」 「合格」 一瞬頬に唇が掠める。僅かな時間であったが、アンジェリークは驚かずにはいられなかった。 「さあ、行くぜ」 「は、うん…!」 アンジェリークはアリオスの後を追って、停めてある車まで走って行った。 車に乗って馴染みのフラットまで向かう。いつもは車で向かうのに、何だか変な気分だ。 「アンジェリーク、今日はいつも通りにリラックスしていてくれ。夕食は外で一緒に食べに行くから、特に準備はしなくていいぜ」 「はい、アリオス」 これからの生活を考えるだけでも、アンジェリークはドキドキする。 どんなことが起こるのか。想像が出来なかった。 |
| コメント タイトル通りのシンデレラ物語を書きたかったので書きました。 楽しんでくださると嬉しいです。 さて。 アリオスさんのお願いの訳は次回に |