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暫くアリオスは黙っていた。短い沈黙だったかもしれない。だが、アンジェリークにとってはかなり長いもののように感じた。 「アンジェリーク」 いざアリオスの声を聞くと、躰がびくりとする。良い話なら良いが、もしそうでなければ哀しみが訪れる。アンジェリークにはそれは今、耐え難いことであった。 「おまえの安全の確約がきちんと取れるまでは、俺のマンションにいてもらうつもりだし、まだまだ手続きはこれだけでは終わらねえからな。それまではあの家にはいられねえから、どのみち俺のところで暮らさないといけねえからな。それに、おまえが成人するまでは、俺が弁護士として責任をもって後見する」 アリオスはそこまでいうと、書類の中にある一文を指差す。そこにはアリオスが後見人として、アンジェリークが成人するまでは着くことが明記されていた。 「おまえにはこれごと同意をしてもらわねえといけねえが、構わないか? この文書を削って欲しい場合は、この項目がないものも用意しているが、どうする?」 アンジェリークの答えなんかはもう決まっている。アリオスに会えなくなるのは嫌だ。だが、頼り切るのも嫌だ。自分の足でしっかりと立ちたい。 「アリオス弁護士、私が成人するまでオブザーバのような形でずっと見守って頂けますか? なるべく一生懸命頑張ります! それで本当に困ったことがあれば、助けていただきたいのです」 アンジェリークは自分の意思で思っていることをきちんと伝えることが出来た。それはこの数ヵ月の荒波を乗り越えてアンジェリークが成長をした証でもある。 アリオスの表情が柔らかなものに変わった。いつも厳しい眼差しをしている男の柔らかな瞳の意味を、アンジェリークは良く解っているつもりだった。 「勿論だ。俺もその意味で後見を申し出た。これからおまえは沢山勉強をして、沢山色々な感動をして、感じて、心豊かになっていく時期だ。素晴らしい人間になるように、今の時期はそれに集中しろ。おまえが成人をしてひとり歩きを始めるまで、俺は遠くから見守っておく。これはおまえの人生だ。俺の人生なんかじゃないからな。決めるのはおまえで、俺じゃねえ。おまえは信じた道をいけ。だが、成人するまでは、常に俺に道案内が頼めると思っておいてくれればいい」 アンジェリークは泣きそうになっていた。アリオスの言葉の重みが心と躰にじんわりと浸透していく。優しくも厳しい眼差しで見守ってくれるアリオスが、こんなにも愛しく感じる。 「迷ったら道案内してください」 鼻をすすりながらアリオスを見ると、いつも通りの少しだけ冷たいものに変わっていた。 「俺に道案内を伺う前に、おまえがどんな道を歩きたいかを、自分で決めてねえと話にならないだろうが」 アリオスに軽く小突かれて、アンジェリークはその通りだと少しだけ顔を赤らめる。 「そうですね。でも大通りぐらいは見つけたみたいだから」 「そうだな」 アリオスは僅かに笑うと、煙草を口に押し込んで、火を付ける。その魅力的な横顔に、アンジェリークは時間を忘れて思わず見とれてしまっていた。 「ほら、ぼけっとしてねえで、もう一度きちんと書類を読めよ。おまえはおっちょこちょいだからな。重要な一文を抜かしてよんじまうみてえだからな。ほら、ちゃんとしっかり読めよ。おまえのこれからの人生を左右するものであることには、変わらないんだからな」 「はい」 アンジェリークは今度こそきちんと書類を読み切らなければならないと、真摯な眼差しで、じっと書類を見る。 色々と細かいことが記されてはいたが、統べての条項についてアンジェリークが優位になるように書かれていた。アリオスが頑張ってくれた証拠だろう。 アリオスさん…。 あなたにはどれほどの感謝をしていいのか、私には解らないぐらいです。 何も知らずに父親の庇護の下で生きて来た私を…、あなたはいつも導いてくれた…。 どんな時でも、結局は助け舟を出してくれた…。 どれほど感謝してもしきれない。きっと一生無理なのかもしれない…。 今までアリオスに助けてもらったことが、走馬灯のようにアンジェリークの脳裏に浮かんでは消える。いつしか瞳からはおおつぶの涙が流れていた。 「おら、泣いたら大切な書類が涙でぐちゃぐちゃになってしまうぜ? 泣くのは全部書類を書き終わって、おまえの相続が済んでからにしろ。それからでも、全然遅くないからな」 アリオスがハンカチを差し出してくれ、アンジェリークはそれを受け取った後に、涙と鼻水を拭う。 「…新しいのをプレゼントしますから、これをもらっていいですか?」 アンジェリークの鼻声での必死の言葉に、アリオスは苦笑しながら、頷いてくれた。 「かまわねえよ。ティッシュがわりにでも使えよ」 「有り難うございます!」 アンジェリークは鼻をしゅんしゅんと言わせながら、アリオスに泣き笑いの表情をした。 暫くしてようやく落ち着いて、アンジェリークは深呼吸をする。 「もう大丈夫か?」 「はい。ちゃんとサインは出来ますよ」 アンジェリークが言うと、アリオスが改めて万年筆を貸してくれる。 「有り難うございます」 「ああ」 もう一度深く深呼吸をしてから、アンジェリークは背筋を延ばして書類に向かう。 「慎重に心を込めて書けよ。失敗しても予備の書類はあるが、要するに心掛けをしっかり持って書類にサインしろ。おまえの人生は、それで決まる部分があるんだからな」 「はいっ!」 アリオスが言うように、本当に慎重に慎重を重ねてサインをする。 心を込めて…。今までとこれからへのいっぱいの気持ちを込めて…。 アンジェリークの思いが通じたのか、とても綺麗にサインをすることが出来た。ほぼ息を止めながらサインをしていたので、解放されたときには、本当にほっと肩の荷を降ろした。 「出来ました!」 「サンキュ。すぐにコピーをしておまえに渡すから、待っていろ。原本はおまえが一人立ちしたときに渡そう」 「はい」 アリオスがコピーをしに行っている間、アンジェリークは何やら落ち着きのなさそうにきょろきょろと事務所内を見る。 今まで、この場所に来た時にはあまり自信がなくて、きちんと見る余裕すらなかったが、今は少し落ち着いて見ることが出来る。 アリオスさんは、ここで書類と格闘しながら、困っている人達を助けているんだ…。 ここはアリオスさんの本陣なんだ…。 だからここにくれば、その強さに安心するんだ…。 「ほら、コピーだ。マスターは俺が持っておくが、大切に管理するんだぜ」 「はい」 アリオスはきちんと封筒に入れたものを渡してくれた。 「これで直ぐに、おまえの相続権が認められる。良くかったな」 「有り難うございます」 アンジェリークはソファから立ち上がると、深々と頭を垂れる。 「頭上げろ。当たり前のことにおまえがそこまで礼を言う必要はねえよ」 「アリオスさん…」 アンジェリークはただアリオスを見つめることしか出来ない。感謝という気持ちとアリオスへの恋心が深い感情を織り成し、言葉や表 情ではとてもではないが、表すことなど出来ない程だった。 「帰る仕度をしろ。今夜は俺も帰るからな。おまえの相続が決定したことを祝うか」 「有り難うございます」 礼をもう一度言ってから、アリオスが準備をするのを待つ。 コートやマフラーを身につける仕草、革の手袋をはめる仕草…。総てがアンジェリークを魅了して止まない。 ずっと、ずっとアリオスさんを見つめていられればいいのに…。 胸が切なさで軋んでしまうぐらい、アンジェリークはアリオスのことが愛しく思える。 違う世界の人かもしれない…。 けれども神様、もう少しだけ夢を見させて下さい…。 アンジェリークはアリオスを待っている間、女としての強い情念に躰も心も焼き尽くされてしまいそうだった。 「準備が出来たぜ。飯を食いに行こうか」 「はい」 アンジェリークは明るく挨拶をすると、アリオスの後に着いて行った。 アリオスが連れていってくれた場所は、今の季節には相応しいチャンコ鍋屋さんだ。 「ここはかなり旨いんだぜ? たっぷり食えよ」 「嬉しいです。私はかなりの”お腹空きやサン”だから」 「だろうと思ってな。いっぱい食えよ」 「はい」 アリオスのお勧めということもあり、かなりチャンコ鍋は美味しかった。 たっぷりの野菜に、新鮮な肉や魚貝類。 余りにも美味しいので、するすると胃の中に入る。 アンジェリークの顔は一気に笑顔に変わった。 「ほらどんどん食えよ!」 「はふはふ!!」 アンジェリークがはふはふと食べていると、鍋奉行なアリオスは沢山皿に入れてくれる。 締めの雑炊も本当に美味しくて、マンションに帰る頃には、お腹が一杯ではち切れそうだった。 「ホントに良く食べました!」 「良い食いっぷりだったぜ?」 「はい」 アリオスの言葉は少し恥ずかしかったが、アンジェリークは素直に頷く。 「今夜はゆっくり風呂にでも浸かって寝るといい」 「きっと、良く眠れると思います!」 アンジェリークは本当に心からそう思った。最後にしっかりと眠った日はいつだっただろうか。そんなことを考えながら、アンジェリークは上機嫌でバスルームに向かった。 バスキューブを入れたお湯に、ゆったりと浸かるのも何とも言えないくらい気持ちが良い。 アンジェリークは久しぶりに心からの幸福を感じる。前回ここまで温かな気持ちになったのは、まだ父親が生きている頃ではなかっただろうか。 今日一日で本当に色々なことがあり、幸せ色に染まっているような気分だった。 「ホントに、私は何て幸せ何だろう…」 初めて呟いた言葉だった。 バスルームから出て、温かなベッドに横になる。良い夢が見られるようなそんな気分になる。 アンジェリークは幸せに目が眩んで、アリオスとの別れが間近に迫っていることを、気付かないふりをしていた…。 |
| コメント 星の王女の古賀さんと未来ちゃんのお話をモチーフにしたアリコレです。 短い間よろしくです〜 あしながおじさんちっくな夢物語になっていきます。 アンジェリークが幸せになるのをおたのしみになさって下さい。 |