2
目の前にいる医師アリオスは、感情の写さない鏡のような眼差しを、アンジェリークに向けてくる。アリオスはバレエを踊るなどとんでもないという雰囲気を醸し出していた。 だが絶対に曲げられない主張-----アンジェリークは心の中の”意志”という名の拳を振り上げた。 「どうしてもか?」 低くどこか叱責するような声で、アリオスはきいてくる。アンジェリークはとうしてもこれだけは譲れない。 「お願いです! これは曲げることは出来ません! 初めてのエトワールなんです。どうしても踊りたい」 アリオスは唸り、顎を綺麗な指先で考え込んでいる。足首とアンジェリークの顔を交互に見た。 出たのはしょうがないとばかりの溜息。 「オッケ。きちんと診察をする。学校に遅刻する旨と親御さんに連絡をするから、連絡先を教えてくれ」 「はい」 アンジェリークが連絡先を教えれば、直ぐにアリオスが対応してくれる。診療室を出て、連絡に行ってくれたのだ。素早い対応に、アンジェリークは安心して診察が受けられると感じた。 連絡を終え、アリオスが診療室に戻ってくると、白衣が着られていた。名札もきちんと付けてある。改めて医者なのだと確認し、アンジェリークは胸をなで下ろした。 「じゃあ本格的に診療するからな」 「はい」 「靴と靴下を脱げ」 何となく恥ずかしいのではなく、かなり恥ずかしい。診察とは言え、こんなに綺麗な顔をしたアリオスに、素の自分を見せるのは。 「素直に反応しろ。我慢するんじゃねえぞ。痛かったら痛いってな。ただしうるせえのは困る」 痛いと叫んでいいのか悪いのか。これでは全く解りはしないとアンジェリークは思った。 アリオスのひんやりとした秋の空気のような手が、アンジェリークの足首を捕らえてくる。痛くて気持ちが良いというのは、正にこの感覚なのだろう。 「ここは?」 「そんなに…」 痛くはないのだが、熱を帯びているので、アンジェリークはつい曖昧な答えを言う。熱くて胸の鼓動が高まり、だが、痛みはなくて。この複雑な感覚を言葉にするのには、難し過ぎた。 「はっきりしろ!」 「だって、素直に…」 「肉体的に痛みを感じるかそうでないかだ」 アリオスはどこか喧嘩腰に言ってくる。アンジェリークは思わずむっとした。 「そんなの解らない。ちゃんと真面目に答えているのに!」 「医師としては解らねえんだよ!」 お互いに睨みを効かせる。だが、ここは自分から下りないと、アンジェリークは頼みの綱を無くしてしまう事になる。 「…痛いっ!」 アリオスが痛みの中枢をピンポイントど突いて来た。触られた瞬間は、涙が零れた。それぐらい肉体的に痛い。 「ここだな…」 「も、離して下さい〜! 痛くてっ!」 「フン」 アリオスは痛みのツボから、手を離すと、じっと足首を診た。 「何ですか?」 「片方の足首をみせて貰う。脱げ」 顎で靴下を示され、アンジェリークはしぶしぶ脱いだ。恐らく、足首の細さを比べてどれぐらい腫れているかを、確認する為だろう。 じっと足首ばかりを、素敵な男性に診られるのは、やはり緊張してしまう。アンジェリークは些か呼吸を速めた。 「…レントゲンだな。捻挫か剥離骨折か、骨折か。見極めねえとな」 「酷いのですか?」 アンジェリークは恐る恐るきく。骨折だったらおしまいだ。幼い頃から頑張って来た夢が、がたがたと音を立てて崩れ落ちる。まるで砂糖菓子が崩れていくように。 不安と最悪の結果が、心と脳裏にちらついて、アンジェリークは胸が締め付けられた。 恐い。 このまま結果を、アリオスの唇から聞いてしまうのは。 結果がまだクリアーに出ていないと言うのに、アンジェリークは奈落の底に落ちた気分だった。 あれほど熱かったのに、総ての体温が恐怖と不安に奪われ、今は凍り付くよう。紅潮していた頬は、色を無くしていた 「んな、顔をすんな。まだ骨折だとかは決まったわけじゃねえだろうが」 「だって…」 唇を噛んで俯くと、アリオスの舌打ちが聞こえた。 「ったく! 落ち込むのは、きちんと診察結果が出てからにしやがれっ! ったく!」 アリオスは半ば呆れるように言うと、アンジェリークをいきなり抱え上げた。 「きゃあっ!」 「レントゲンを撮りにいくぜ!」 また、お姫様抱っこで廊下を歩かれると想うと、火が出るくらい恥ずかしい。 先程まで蒼かったアンジェリークの顔色が、一気に赤みを指した。 「アリオス先生、車椅子とかストレッチャーとかは…」 「ストレッチャーは、大袈裟。車椅子は面倒臭い。おまえにはこれで充分だ」 「うーっ!」 アリオスは何事でもないように、あくまでクールに運んでくれる。だが、アンジェリークには甘い苦痛だ。 レントゲン室に行くと、いかにもきまじめなレントゲン技師がおり、アリオスは強引に説得し始めた。 「早くやれ。重要急患だ」 「捻挫がですか!?」 難色を示す技師に、アリオスは更に眉根を寄せて、視線で言い掛かりをつけていく。 「エルンスト、おまえはどんな患者も軽視するのかよ」 「解りましたよ。解りました。アリオス先生、レントゲンは行います」 「サンキュ」 半ば眼差しで脅したとアンジェリークは思ったが、おくびには出さなかった。 アンジェリークのレントゲン撮影が行われ、アリオスは真剣な眼差しで見守っている。 レントゲンを撮られるのは検診以外では初めてで、妙に緊張した。 「ほら、終わったぜ。後は出てくるのを待つだけだ」 「はい」 たった一枚のレントゲンで自分の運命が決まる。 アンジェリークは鼓動が速くなり、リンパのラインすら鋭い痛みを感じる。手には汗が滲み、中々落ち着けなかった。 アリオスにまた抱き上げられて、視線を浴びながら、診察室に戻る。 マイナスなことばかりを考える自分が切なく辛かった。 ベッドに座らされて直ぐに、レントゲンがやって来た。アリオスは直ぐにレントゲン用のライト台に明かりを付け、直ぐに見つめる。 アリオスの眼差しが今は痛い。どんな結果が導かれるのか、本当に恐ろしかった。 「足首はひどい捻挫だ。骨折はしてねえから安心しろ。テーピングが旨いやつにやってもらえば、何とかバレエぐれえは踊れるだろう。だが、相当負担は大きくなる。他の部位まで影響してしまうかもしれねえのが、難点だ」 アリオスは深刻に眉を寄せている。 「疲労も蓄積されている。庇うことで靱帯だとかに負担がかからなければいいがな。靱帯まで負担が掛かると、厄介なことになる」 「そんな…」 アンジェリークは安堵とショックがぐるぐると押し寄せて、戻したくなるぐらいに気分に酔っていた。 「きちんと対処はしてやる。踊りを踊れるぐらいには。ただし、毎日うちにきて、診察を受けろ。そうじゃねえと靭帯とかに疲労と負担がかかり、テーピングぐれえじゃ踊れねえ。下手したら車椅子だ」 脅しでも何でもないことは、アンジェリークにはよく解っていた。不安が押し寄せ、呼吸なんて旨く出来ない。 泣きたくても泣けないぐらいにショックを受け、アンジェリークは鼻を啜った。 「そんな顔をするな。最悪の結果を回避する為に、俺達医師はいるんだから、おまえもしっかりしろ! おまえのことだから、おまえ自身がしっかりしねえといけねえんだぜ」 「はい…」 全くアリオスの言う通りだ。もっと前向きでなければ、折角のエトワールを踊れないだろう。 「解りました。お願いします!」 アンジェリークは素直に真摯な想いで頭を下げた。アリオスに今は縋るしかない。 「解った。きちんとテーピングしてやるから、頑張るんだぜ」 「はいっ!」 しっかりと明るく返事をすると、アリオスは眼差しに笑みを映しこんで頷いてくれた。 「じゃあ、治療とテーピングしておくが、バレエ以外に無理はするな。負担はなるべく少なくしろ」 「はい!」 アリオスの治療の手際は、実に良かった。痛みのある部分にしっかりと強力な湿布を貼付け、テーピングする。こんなに旨いテーピングを、アンジェリークは受けたことがなかった。きっちりとしているのに、痛くない。痛みすらも抑えてしまう巧みなテーピングだった。 「よし。少し歩いてみろ」 「はいっ!」 アンジェリークは歩けるような気がする。足をつくと、簡単に歩くことが出来た。何時ものように軽く。 「凄い!」 余りにも普通に歩け過ぎて、アンジェリークはぴょんぴょん跳びはねてしまう。 「おい! そんなに跳びはねるな」 アリオスに嗜められて、アンジェリークはしゅんとうなだれた。 「ごめんなさい…」 「これが俺の名刺だ。明日保険証を持って来い。これを出したら優先的に診てやる」 「有り難うございます」 受け取った名刺に恋の重さを感じた。 |
| コメント 文章修行のために書いた一品。 あはは〜な出来ですが、愉しんで頂けると嬉しいです。 直ぐに終わります。たぶん(笑) |