とらわれの姫君

8


 アリオスお兄ちゃんは必ず帰ってくる…。
 早く帰ってくる。
 私はそれを楽しみに、夜を過ごしていた。アリオスお兄ちゃんの帰りを楽しみに待つだけで、楽しい気分になれる。もちろん、カフェオランジェのケーキも楽しみでしょうがないけれども。
 今朝のアリオスお兄ちゃんの指先の温もりを思い出す。触れてもらったところを自分で触れてみると、心地良い温もりが私を充たしてくれる。
 凄いね。思い出すだけで、心がこんなに充実するなんて…。
 私は、何度もアリオスお兄ちゃんに触れて貰ったところを、ぷにぷにしていた。
 顔がにやけているかもしれない。
「何してんだ、おいっ!」
 後ろから声をかけられて、私はびくりと振り返る。そこにはレオナードお兄ちゃんがいた。相変わらずの不精髭状態だ。
「何、お兄ちゃん」
 私が改めてきくと、レオナードお兄ちゃんは罰が悪そうで、どこか照れ臭い表情を浮かべた。
「なぁ、エンジュはおまえと同じクラス何だよなあ」
「そうよ」
「そうだよな…」
 レオナードお兄ちゃんが何が言いたいのか、私はさっぱり解らない。
 言葉を濁していても、明らかに何かをごまかしているようには見えないし…。私は首を捻った。
 ただ私の隣に大きい躰を折り曲げて、体育座りをしている。表情は何とも言えない思い詰めたものだ。
 何も話さずに悶々と珍しくしているレオナードお兄ちゃんの顔を、私は覗きこんだ。
「どうしたのよ?」
「何でもない」
「顔に何かが書いてあるように思えるなあ」
 するとレオナードお兄ちゃんはわざと顔を隠した。
「見るな」
「見るなって言われてもねえ。何を言いたかったのよ?」
 私が聞き出そうとすると、レオナードお兄ちゃんはとたんに不機嫌な表情になる。全く、喜怒哀楽の激しいお兄ちゃんだ。
 横顔を見ると、我が兄ながらカッコイイと思う。だけど、カメラマンになってから生やしている不精髭が凄く気になるけれども。
「レオナードお兄ちゃん、髭剃ったら?」
「やだ」
「どうして?」
「もう、いい! おまえも風呂に入って寝ろよ!」
 レオナードお兄ちゃんは感情を爆発させるように言うと、立ち上がってどこかに出ていってしまった。
 どうしたんだろう?
 柱時計を見ると、既に9時を回っていた。
 レオナードお兄ちゃんの言う通りに、そろそろお風呂に入る時間だ。
 お風呂に入っている間に、アリオスお兄ちゃんな帰ってこないように祈りながら、私は汗を流すことにした。
 早く帰ってきて…。
 甘い約束を護って欲しい…。
 私はシャワーを浴びながらも、しっかりと祈ることしか出来なかった。

 お風呂に出ても、アリオスお兄ちゃんが帰って来た形跡は認められなかった。
 私は深呼吸をするかのように大きな溜め息をはいた。
 もうすぐ帰ってくる。
 ただそれだけを信じて、私は玄関先でアリオスお兄ちゃんを待ち続けていた。
 まるでご主人に忠実な犬や、母親をひたすら待ち焦がれる子供のように、私は待ち続けた。
 誰が私のアリオスお兄ちゃんに、早く帰ってくるように叱ってください。
「ありゃ、アンジェはまだ起きているのかね。私はもう寝るよ」
 お風呂から出て来たルヴァおばあちゃんが、私をじっと見つめながら言う。呆れているようだ。
「今夜はアリオスお兄ちゃんが帰ってくるから、お兄ちゃんの部屋で寝てはダメよ、おばあちゃん」
「今日も寝るよ。アリオスはどうせ帰って来ないって」
 ルヴァおばあちゃんの言葉が、今の私にはしゃくに触ってしょうがない。
「アリオスお兄ちゃんは帰ってくるって言っていたもん!」
 私は思わずムキになって言わずにはいられなかった。
「とにかく、私はアリオスの部屋で寝るよ。アンジェも早く寝なさい! おやすみ!」
 ルヴァおばあちゃんはそれだけ言い残して、アリオスお兄ちゃんの部屋に行ってしまった。
「アンジェ、夏だからっていつまでもそんなところにいたら風邪を引くわよ。早く寝なさい!」
 今度はお母さんに咎められたけれど、私は玄関先から移動することが出来なかった。
 アリオスお兄ちゃんがまだ帰ってはいないから。
 約束をちゃんとしたんだから…。帰ってくるって。
 お母さんは無情にも玄関の電気を切ってしまった。
 悔しくてしょうがない。
 でも、私は待たずにはいられない。
 時計を見上げると、既に深夜に近い時間になってしまっている。
 私は切なさにいつしか泣いていた。

 どれぐらいうとうととまどろんでいたかは解らない。
 ドアがそっと開かれる音に、私は目を覚ました。
 目を開けると、アリオスお兄ちゃんが家に入って来るのが解る。
 私は寝ぼけた躰がすぐにしゃきっと動くような気がした。
「おかえり…、アリオスお兄ちゃん」
「ただいま、アンジェ」
 アリオスお兄ちゃんが優しく近づいてくれたので、私は何の躊躇いもなく抱き着いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 更にもっともっと、お互いにしっかりと抱き合って、存在感を確かめ合う。
「…約束を守ってくれて有り難う…」
「半分違反しているけれどな…」
 苦笑しながら、アリオスお兄ちゃんは柱時計を見つめていた。
 うとうとしていて気付かなかったけれど、既に深夜2時は過ぎてしまっている。
「でも、ちゃんと”夜”のうちに帰ってきたから、赦しちゃおうかな」
「サンキュ」
 私はくすくすと笑いながら、更にアリオスお兄ちゃんに抱き着いた。
 温かなお兄ちゃんの温もりは、私を安心させてくれる。
「じゃあ、寝るぞ。夜更かしは肌に良くねえからな」
「夜更かしさせたのは、どこの誰よ?」
「おまえのじゃなくて、俺の肌」
 アリオスお兄ちゃんの茶目っ気のある眼差しを見ていると、私はもう怒れない。ちゃんと約束を護ってくれたことが嬉し過ぎて、笑顔以外にはなれない。
「俺の肌はデリケートだからな。おまえのみてえにバリケードじゃねえから」
「もう! 私だってつるつるよ!」
 思わず声を大きく上げてしまい、私はアリオスお兄ちゃんに口を塞がれてしまう。
「何時だと思ってやがる。もう深夜だぜ!?」
「ごめん」
 アリオスお兄ちゃんが早く帰ってこないから、なんて台詞は不粋だから今は留めておいた。
「アリオスお兄ちゃん、おばあちゃんが部屋をまた使ってるよ」
「マジかよ!?」
 アリオスお兄ちゃんは眉を寄せて、わざと不機嫌そうな顔をする。それがまた好きで、私はじっと見つめた。
 ちょうど、レオナードお兄ちゃんの部屋の前に通りかかると、豪快なイビキが聞こえる。僅かに部屋のドアが開いている。
「レオナードお兄ちゃんってさ、どうしていっつも不精髭なのかなあ」
「ナメられねえようにじゃねえの?」
「ええ!? あんなのキチャナイだけじゃない。私は嫌。私達の周りはみんな言ってるわよ?」
「じゃあ、剃っちまおうぜ?」
「いいね! やろう!」
 アリオスお兄ちゃんがイタズラっぽく言うので、私もそれに同調する。
 昔から、イタズラを企んでいるアリオスお兄ちゃんの表情は大好きだった。永遠の少年を感じる。夕映えにいる拗ねた少年の姿を想った。
 私達はこっそりと洗面所に向かい、新しい安全カミソリとシェイビングフォームをそっと持っていく。
 こそこそと見つからないように先を進むけれど、笑いが込み上げてくる。
 これから楽しいことが待ち受けていて、辛抱たまらない笑いだ。くつくつと愉快な声を噛み殺すが、やはり微妙に息が漏れる。
 子供の頃の、とっておきのイタズラの結果を最高のものと考えながら、高揚した気分でいるのに似ている。
 私達は、レオナードお兄ちゃんの部屋の前で、一瞬、呼吸を合わせる。
 打ち合わせなんかしなくても、私達はお互いの役割が解っていた。
 私がカミソリとシェイビングフォームを持ち、アリオスお兄ちゃんはその腕っぷしで勝負だ。
「せえの!」
 私達は寝ているレオナードお兄ちゃんに、一気に奇襲をかける。まるで義経の気分だ。
「うわっ! てめえら何をしやがる!?」
 レオナードお兄ちゃんは直ぐに目を覚ましたけれど、もう後の祭り。
 私達の”コンビネーション”には叶わない。
 アリオスお兄ちゃんがレオナードお兄ちゃんの大きな肢体を押さえ付けて、私が顔中にシェイビングフォームまみれにして、不精髭を剃る。
「安全四枚刃だからね、すっきりだよ〜」
 じょりじょりと音を立てて剃り終えると、私達は直ぐさま退散した。
 部屋から飛び出て、直ぐに私の部屋に飛び込む。皆が寝ているので、流石のレオナードお兄ちゃんも叫んではこられない。
「明日の朝が楽しみね!」
「きっと、男前になってるって、アイツ」
 私達は顔を見合わせて微笑みあった。
 ふたりで力を合わせて仕掛けたイタズラほど、楽しいものはない。
「今夜もこの部屋にとめろよ? 俺の部屋はばあさんが占領しちまっているからな。シャワー浴びてくる」
「うん」
 アリオスお兄ちゃんを見送った後もすごくドキドキする。
 胸のドキドキが私の顔を赤く染め上げていた。
 ベッドに入って、アリオスお兄ちゃんを待つ。私は眠るどころではなく、アリオスお兄ちゃんを待たずにはいられなかった。
 暫くして、シャワーを浴びてきたアリオスお兄ちゃんが部屋に戻ってくる。
 まだ胸がドキドキしている。
 眠れない…。
 アリオスお兄ちゃんは、私に背を向ける形でベッドに入る。
 温かな肌の熱気を背中ごしに感じた。
 アリオスお兄ちゃんの寝息を感じても、私はまだ眠れない…。
コメント

アリコレ兄妹ものです。
まだ佳境までには時間がかかりそうですが、宜しくお願いします。





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