Private Lesson

10


 あの温かな雨と緩やかな動きをする電車を忘れない。またひとつ宝物が出来た気分になる。
 アンジェリークは、心の奥に、アリオスとの素敵な想いを心の奥にしっかりとしまって、明日からの大切な活力に出来るような気がする。
 また、アリオスのことが好きになった。きっとでんでん好きになってしまうだろう。
 学校に行き、あまり好きでなかった数学の授業も、最近は真面目に聞けるようになった。きっとアリオスのお陰だ。
 毎日、アリオスに会えるのが嬉しい。アリオスの授業中はずっと見ていられるのが嬉しい。
 アンジェリークは、いつにも増して、授業をするアリオスを熱心に見つめていた。
 眼鏡をかけたどこか野暮ったい姿の影には、素敵過ぎる姿がかくれていることを、きっと誰も知らない。それを知るのは、何だか自分だけの特権のように思えた。
 ニコニコと笑いながら、アンジェリークはしっかりと授業を聞く。間接的にはアリオスのお陰で、数学の成績も随分と上がったような気がした。
「今日の授業はここまでだ。課題はしっかりやっておけ。次回提出だ」
 不平不満を言う声が聞かれるが、アンジェリークはむしろ楽しくて笑いが込み上げる。課題はアリオスへのラブレターのような気分で、取り込む事が出来るような気がする。
 休み時間に入り、アリオスが教室を出て行くと、アンジェリークもその後をそっと着いていく。
「先生、質問があるのですが」
 アンジェリークが言おうとした言葉を、別の生徒が口にした。
 近付こうとして尻込みをするアンジェリークを、アリオスはちらりと見てくる。その瞳は何故だか冷たかった。
「どこだ?」
 アリオスは、女子生徒にわざとするかのように密着をし、美しく書かれたノートを覗きこんだ。
 胸がぎゅっと掴まれて、キリキリと痛む。直接的な痛みでもなんでもないのに、泣き出したくなるぐらいに痛かった。
 目の前で、アリオスが自分以外の生徒と、あんなに熱心に密着しながら教えているなんて。
 アンジェリークには許されない行為のようにすら見えた。
 嫉妬が、ぶすぷすと嫌な音を立てて燃え上がり始め、アリオスと生徒の間をどうしても邪魔したくなった。
「先生っ! アンジェもここが解りませんっ!」
 アンジェリークは半ばむきになりながら、アリオスと生徒の間を割り込んだ。驚いたのは、アリオスの間にいた生徒だった。そんな顔をされても、アンジェリークは止められなかった。
 生徒、りとりひとりと平等なのは解ってはいるが、どうしても独占してみたいのが乙女心だ。
「コレット、何か質問か?」
「あ、あの…」
 冷たい目で、アリオスに咎められるように見つめられるのは、アンジェリークにとってはやはり辛いことだ。何だか無言のプレッシャーを与えられたみたいで、切なかった。
 何も言えずに、アンジェリークはアリオスのシャツの端を折る。そしてただ俯きながら、小さな声で呟いた。
「…先生、質問があります」
 心の奥底から搾り出すような声で、アンジェリークは幼子のように呟いた。
「子供みてえな真似はするな。コイツが先だ」
 アリオスの言葉は、全くといっていいほどに冷たく、本当に事務的だった。
「次の授業が終わったら、数学準備室に来なさい」
 アンジェリークが全面に悪いような口調でアリオスが話すものだから、益々哀しくなってしまった。
 アンジェリークは泣きそうな顔でアリオスから離れると、まるでお菓子を欲しがる子供のように、しゅんと小さくなって立ちすくんだ。
 ただ、アリオスから半歩離れて立つしか出来ない。まるでおもちゃを取り上げられた子供のようにしていた。
 アリオスが総ての質問について答え終わる頃には、もうチャイムが鳴り響いていた。
 結局、アンジェリークはアリオスを背にして、とぼとぼと教室に戻るしかなかった。

 準備もさして身が入らないまま、アンジェリークは放課後を迎えた。
 重い足取りで数学準備室に向かう。アリオスに怒られるのは決定的だ。
「アリオス先生、コレットです」
「ああ。入れ」
 プライベートで逢う時とは違う、不機嫌が頂点を極めているような声に、アンジェリークは後込みをしながら、準備室の中に入っていった。
「失礼します、アリオス先生」
「ああ。そこに座れ」
 アリオスは眼鏡を外し、煙草を口にくわえている。アンジェリークが知っているプライベートなアリオスよりも、更にハードなような気がした。
「今日の廊下での態度は何だよ? おまえはいつから自分本位の人間になっちまったんだよ?」
 アリオスの声はナイフよりも鋭くて、アンジェリークの胸をぐるりとえぐってくる。痛くて涙が瞳に滲んでくる。
「…すみませんでした」
 アンジェリークはちゃんと顔を合わせる事が出来ずに、ただ俯いて謝った。
「俺に謝るんじゃねえだろ? 相手にきちんと謝れよ」
 アリオスが、相手の肩ばかりを持つのが、アンジェリークにはしゃくに障る。胸の奥がもうぐちゃぐちゃになっていった。
「本当にすみませんでした。もうしません」
 アリオスは自分を嫌いになったのだ。
 そちらから恋愛ゲームに誘っておきながら、アンジェリークが乗ってしまえば、無情にも下りてしまうだなんて。
 悔しくて、辛くて、胃の奥がキリキリと痛んで、胃酸が壁を溶かしているのではないかとすら、アンジェリークは思った。
「アリオス先生…、反省文を書きます。もうしないって、もう近付かないって」
「んなことは、しなくていいんだよ」
 アリオスの苛々はかなり沸騰しているのが、アンジェリークには直ぐに感じ取られた。
「解りました。それだけですか?」
 アンジェリークは、アリオスの目を見ることが出来ないまま、小さく声を出す。
「それだけだ。学校では、あまりそんな態度を出すんじゃねえぞ」
 アリオスに再度釘を刺されている痛みを前身に受け止めながら、アンジェリークは深々と一礼をした。
「はい、解りました。失礼します」
 アンジェリークはやっとの事で準備室から出ると、唇がとてもしょっぱい味がした。
 アンジェリークは泣いている姿を誰にも見られないように細心の注意をしながら、学校を後にした。
 今、掌にあるのは、アリオスがアンジェリークを嫌ったことだけだ。

 翌日の数学の授業を、アンジェリークはごくごく静かに受けた。
 今までならニコニコ笑っていたのに、今は笑うことが出来ない。
 きまじめに授業を受けた後、アンジェリークは質問にも行かなかった。休み時間はただ教室にいて、アリオスを避けるようにしていた。
 アリオスとは随分と話をしていない。それが答えなのだと、思わずにはいられなかった。
 アリオスが開いている、進学者を対象とした数学の補習も行かない。
 もう、これ以上は、怒られたくはなかったし、アリオスのあの瞳を見る勇気はなかった。
 アリオスとは全く逢いたくはなかったが、とうとう呼び出しを受けた。
 補習のことだろうし、それならそれで止めてしまっても良かった。
「アリオス先生、コレットです」
「ああ。入れ」
 アリオスの声は相変わらず冷めていたが、この間のように怒った調子ではなかった。
「先生、補習のことについてですか?」
 アンジェリークは自分から先に切り出し、逃げ道を作っていく。
「それもあるが、最近、おまえ、おかしくねえか?」
アリオスの視線を避けるように、アンジェリークは宙に自分の視線を這わせた。
「…文系志望を希望しているので、数学は必要ないと思うので、補習には出ません。すみません、アリオス先生。もうこんなことは ないようにします。すみませんでした」
 アンジェリークは一礼をした後、数学準備室を後にしようとした時だった。
 ふと息が出来なくなるような圧迫を、躰中に感じる。
「ア、アリオス先生…!?」
 直ぐにアリオスが力付くで抱きしめてくるのに気付いた。
 離したいのか、引き離したいのか。
 アンジェリークは解らないままで、浅く喘いだ。
 私を混乱させないで…。
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可愛いものを書きたかったんです。





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