9
アリオスと乗る鈍行はとても優しい。快速よりもずっと時間はかかってしまうが、アンジェリークにとっては、それが何よりのスローな時間の流れ。 いつもなら、快速に乗り込んで、早く家に帰ったり、目的地に着いたりしたいのに、今は出来ることなら路面電車と同じぐらいのスピードで動いて欲しいと思ってしまう。 ふたりして、がらがらの電車をわざと乗り込んで、座らずに窓際でもたれ合う。 「先生…」 「アリオスだ」 「アリオスは普通電車が好きなの?」 アンジェリークはごくごくシンプルに話をきいてみる。するとアリオスはふっと優しげな笑みを浮かべた。 「そうだな。俺はひとりなら快速を選んでいかもしれねえな。ひとりならな。チャッチャと帰って昼寝してえって思うもんな」 「私もひとりなら快速を選びました」 アンジェリークも自然に笑みを浮かび上がらせながら、アリオスに頷いてみせた。 「普通電車だと、今まで見逃していたことを、見つけたり出来るだろ?」 「そうですね。何気に通り過ぎていた駅も、新たな発見があるかもしれないし」 アンジェリークは、陽射しが幾分か弱くなってきた外の様子をじっと見つめる。アリオスといると、何故だか特別な空間のように思えた。 「段々と都会になっていくのが楽しい。あんなに綺麗な山から、暫く電車に乗れば、都会になるなんて、やっぱり凄いことですよね」 アンジェリークは、徐々に賑やかになる町並みを楽しみながら、箱庭のように可愛らしい風景に夢中になった。 「こんな風に町を見たことはなかったかも…。新しい発見があるなんて、ちょっと得した気分です」 アリオスに笑いかけると、綺麗な指先が栗色の髪にかかった。 アリオスの微笑みと共に、アンジェリークはドキリとする。 外の玩具箱をひっくり返したような風景と、アリオスの落ち着いた笑みが重なりあい、まるで過不足のない絵画のような雰囲気を醸し出している。 「スローもたまにはいいもんだよな」 「そうですね…」 アンジェリークは胸を高まらせながら、わざと外の風景に集中する。こんなにときめき過ぎているのが、恥ずかしくてたまらなかったから。 気付かれている、きっと…。 耳まで心臓の鼓動がはっきりと聞こえてくる。喉がからからになり、アンジェリークは何度も唇を濡らした。 ”好き” ガラスごしに見たアリオスに、アンジェリークは心の中で子供のように呟いてみる。大切なおまじないのように、何度も、何度も。 「本当にいつもとは雰囲気が違うように町並みも見えてしまいますね」 「だな。本当に景色を愛でる暇なんてねえからな」 「心の余裕も…」 アリオスがふと手を握ってくれた。誰にも知られない。ただアンジェリークだけが解るように、アリオスは手を握り締めてくれる。それがアンジェリークには嬉しかった。 これは自分だけが知っておけば良い。他人なんかに知られるのは、もったいないことだから。 アリオスと他愛がない話をしながら、のろのろと電車に揺られるのが、至福の時間だ。 ふと学校らしき建物が見えた。アンジェリークの胸が、タブーを思う心から、チクリと痛んだ。 学校のグラウンドでは、中学生ぐらいの少女が、元気良く走り回っている。遠くにはいかにも体育教師っいったシルエットも見受けられた。この中にも、アンジェリークとアリオスのようにータブーな恋愛に飛び込んでいく者はいるのだろうか。 現状だと、教師と生徒の恋はタブー。 誰がそんなことを勝手に決めたのだろうか。 アンジェリークは、決めたモラルを潰して引っ掻いてやろうかとすら想った。 「学校か…」 「はい」 それ以上は言葉が出てこない。 アリオスといると、学校は何処か踏み絵をする場所のようにすら思えた。 「今は学校なんて関係ねえだろ?」 アリオスの言葉が翼を持っているように、アンジェリークには感じられる。 「関係ないです…」 「そうだ。関係ねえ」 アリオスは言葉を噛み締めるように言うと、ドアに凭れかかった。 突然、電車が音を立てて揺れ、アンジェリークの躰がバランスを崩した。 「きゃあっ!」 アンジェリークの悲鳴と共に、アリオスががっしりと受け止めてくれた。 いつもこうやって倒れそうになったら、アリオスは支えてくれる。今まで、こう言う事が何度もあったのだ。改めて、アンジェリークはアリオスが頼りになると、確信する。 「いっつも、有り難う」 「本当にいっつもおまえを助けているよな」 アリオスは笑いながら、アンジェリークの肩を抱き寄せてくる。肩に食い込む指先が熱かった。 休日のピクニック先からの普通電車はひとがまばらなせいか、アリオスは堂々としている。 アンジェリークは恥ずかしさを感じたが、それよりももっとアリオスに抱きしめていて欲しかった。 黙って抱かれたままでいると、アリオスが顔を近付けてくる。 人が見ているかもしれないのに、言い知れぬ快感が打ち寄せてくる。アンジェリークは無意識に目を閉じていた。 それを降伏だと受け止めたのか、アリオスは更に唇を近付ける。 アンジェリークの鼓動は、激しさを増した。唇から、熱い吐息が飛び出してくるような気がする。アリオスに甘い感情を知られたくなくて、アンジェリークは唇を堅く閉じた。 陽射しがまるで映画やCMのワンシーンのように、美しいライトを浴びせてくれる。 アリオスの整った横顔が茜色に染まった時、唇が重なった。 ひんやりとしたアリオスのスペシャルな唇。何度もこの唇に溺れさせられた。 今度もまた溺れてみたい。 電車の心地良い振動の中、アンジェリークはアリオスに大胆にもしがみつく。 もう少し、長く激しいキスをしてほしい。 欲望が熱く高まった瞬間、アリオスは唇を離してしまった。 「あ…」 アンジェリークは、思わずねだるような吐息をはく。アリオスが唇を歪めるように笑った。 「お答えしたいのは、山々だけれどな。ここは車内だからな」 総てを見透かされたと思うと、途端に恥ずかしくて堪らなくなる。からかっているアリオスに、アンジェリークは悔しい眼差しを向けた。 「…もう、知らないんだか!」 アンジェリークが拗ねる顔をするのが何よりも嬉しいといった顔を、アリオスがするものだから、アンジェリークは口を尖らせた。 「電車でキスをしてえぐれえに、おまえが魅力的ってことだ」 「もう、嘘ばっかり言うんだから」 「マジだぜ」 憎らしいぐらいに眩しい笑みを浮かべるアリオスに、アンジェリークは拗ねるふりをしてそっぽを向く。だが、しっかりにんまりと笑っていた。 「明日は学校だな」 「そうですね…」 学校。その響きを聞くだけで、アンジェリークは切なくなった。まるで楽しんだ旅行の帰り道のようだ。しゅんとしていると、アリオスが眉根を上げた。 「何だ、明日からの学校は嫌なのかよ?」 「嫌じゃないですよ。全然嫌じゃない」 アンジェリークは慌てて否定をするものの、肝心な言葉は飲み込んでしまっていた。 ”学校は大好きです。あなたに会えるから。ただ先生と生徒の境界を守り、私に冷たいあなたが、少しだけ切ないのです”と。 アリオスは総てを理解しているかのように切ない顔をした後、アンジェリークの髪を撫でた。 何も言わなかったが、”言葉にしなくても充分に解っている”とすら、言っているように、アンジェリークには思えた。 それからは特に話すことはなかった。 ただ、お互いに縛りあう手錠のように、指をしっかり絡み合わせているだけ。 誰にも解らない、ふたりの絆を結ぶ証であった。 普通電車と言っても、快速よりは心持ち遅くて、駅にいっぱい止まるだけ。だからほんの少しだけ、プラスアルファの時間が存在するだけだ。 やがて、アンジェリーク達が降りる駅に電車が滑り込んでいく。 止まって、ドアが開いた時には、後ろ髪に引かれる思いで降り立った。 その瞬間、アンジェリークは総てが終わったことを、見せ付けられた気分だった。 |
| コメント 可愛いものを書きたかったんです。 朝の通勤電車で篠山口から鈍行に乗った感じをイメージして書きました。 あんなことが起こるとは… |