Private Lesson

7


 このまま雨に閉じ込められたらいい。アンジェリークは、幼い子供が愛情を求めてしっかりと親に抱き着くように、アリオスに抱き着いていた。
 雨はどうしてこんなに倦怠に包まれ、切ない音を出すのだろうか。
 アリオスの抱きしめる腕がもっともっと強くなる。アンジェリークはそれに応えるように、躰をしっかりと密着させた。
 苦しそうなアリオスの吐息が聞こえる。どうしてそんなに苦しそうなの。涙が出そうになる。アンジェリークもアリオスと同じぐらいに、かなり苦しかったから。
 何も話さないというよりは、話せないというのに、躰の熱はーお互いの気持ちを強く現している。
 アンジェリークはいっそこの熱で溶けてしまえばいいのにと思う。
 アリオスの手が、当たり前のように、アンジェリークのシャツの隙間に入り込み、肌をじかに触れて来た。
 躰の熱とは裏腹に、アリオスの指先はひんやりとしている。
 熱い場所が、冷たい指先で触れられることで、更に震えが起こった。
 寒いから震えているんじゃない。
 熱すぎて、胸が切なくて震えているのだ。
 ぞくぞくとしているくせに、なんて気持ちが良いのだろうか。
 アンジェリークはどうしようも出来ない程の嵐に、今、巻き込まれようとしていた。まるで渦に呑まれるような感覚だ。
「アリオス…っ!」
 切羽詰まるような色のついた声を上げながら、アンジェリークはアリオスにしがみついた。
 何かが爆発して、何かが壊れていく…。
 そう感じた瞬間、熱が引いた。
 最初は何が起こっているのか、アンジェリークには全く理解出来なかった。
 ただ切ない程に狂おしい熱が、引き潮のように遠退いたのだ。
 アリオスが複雑な顔でこちらを見ている。どこか後悔を感じられながらも、決して後悔などはしていない顔。
 アンジェリークはアリオスに更なる熱を与えて欲しくて、瞳に涙でマーブル模様を描いた。
「…どうして? どうして止めたの?」
「レッスンはここまでだ。余りなことをしたら、おまえが風邪をひいちまう」
 ただの言い訳のように、アンジェリークには聞こえた。だがアリオスはどこか苦しそうだ。
 止めたかったの?
 それとも止められないから、止めたの?
 アンジェリークはアリオスを求める肌を抑え切るように、ぎゅっと自分自身で抱きしめた。
「レッスンはおしまいだ。ハートかサカキに電話して位置をきけ。後は俺達が無事であることも。心配しているだろうからな。恐らく…」
「…はい」
 とても惨めな気分になりながら、アンジェリークはリュックサックの中にある携帯電話を手に取る。エンジュとレイチェルから一度ずつ電話があった。
 ちらりと見ると、アリオスは何か酔いを覚ますかのように、煙草を吸い始める。背中に苦悩が見え隠れする。
 何だか倦怠な雰囲気が漂っていた。
 レイチェルにリダイアルをし、アンジェリークは落ち着いた少し暗い声を出す。
「レイチェル? アンジェです」
「アンジェ!? どこにいるの? 心配したよ?」
「うん。アリオス…と雨宿りをしていただけだから、大丈夫だよ。今からそっちに行くけれど、今は何処にいるの?」
「山頂に近いところ。ハイキングコースからは逸れていないよ。山頂で待っているから。雨も止んだことだしね」
「うん、有り難う。また後でね」
「うん」
 電話を切ると、余計に気分は冴えなかった。アンジェリークがアリオスに向き直ると、吸っていた煙草が、残り少なくなっていた。
「先生、山頂で落ち合うことになりました」
「ああ」
 アンジェリークは学級委員らしく真面目に言い、アリオスも硬い教師のように応えた。
 穴蔵からゆっくりと出ると、既に外は美しい青空が光り輝く。
 何だか恨めしい気分になった。
「雨が止んでしまいましたね」
「そうだな」
 アリオスの態度がぎこちなくなるのが、アンジェリークは嫌で堪らなかった。
 今まで散々積極的にこちらを焦らしていたくせに、今となっては引き離そうとするなんて。
 アンジェリークは唇を強く噛んだ。
 だったら、どうして今までからかうような態度を取ったのだろうか。
 心を玩ばないで。
 アンジェリークは顔を上げると涙が出そうになった為、ずっと顔を上げないでおいた。
 アリオスが無言で歩き始めたので、アンジェリークはとぼとぼと着いていった。
 何も後ろ暗いことなどしてはいないのに、どうしてこんなに罪悪感があるのだろうか。
 アンジェリークは情けない気分になっていた。
 考えながら、深刻に歩いていたからだろうか。アンジェリークは木の根っこが出ていることに気付かずに、そのまま躓いてしまった。
「きゃんっ!」
 悲鳴を上げると同時に、アリオスがしっかりと腕で受け止めてくれる。
「あ、有り難うございます」
「ったく、そそっかしいな、おまえは」
 からかいと半ば怒りが入った声のトーンで、アリオスが言うものだから、アンジェリークもムッとしてしまう。
「鈍臭いのは生まれつきですっ!」
「ったく」
 アリオスに強引に手を取られると、半ば強制的に引っ張られてしまった。
 強くて痛いのに、どうして気持ちが良いのだろう。零れ落ちそうになっていた涙が、自然に止まった。
 アンジェリークは、アリオスにしっかりと手を握って貰うことは、小さな幸せに感じる。しかし、先ほど起こったことを考えると、また心に 大きな影を落とすのだ。
 どうして手を握ったままなの?
 あんなにあっさりと引いたくせに。
 アリオスは何も話さずに、ただアンジェリークの手を引っ張って軌道に乗せてくれるだけ。
 元々は、道を外したのはアリオス自身だったはずなのに。こうやって無理矢理にとまではいかなくても、やはり軌道を修正するのはアリオスなのだ。
 何だか恋にも同じ事が言えると、アンジェリークは想った。
 行動は、やはり恋の形に似ている。アリオスは、恋もまた、自分から一方的にラインから逸脱させ、そして軌道を修正してきたのだ。
 アンジェリークは胸の奥から涙が溢れるのと、アリオスの手の強さを交互に感じながら、どうしていいのか、どのような感情を持っていいのか、解らなかった。
 ハイキングコースに戻りー緩やかな傾斜を登っていく。時折、葉っぱの上を珠のように転がる水滴が、光を弾き宝石のように見えた。
「やっぱり、自然が作り出すものは綺麗ですね」
 アンジェリークはようやく言葉を発する。他愛がない自然についてのコメントだったが、アンジェリークにとっては大切なものに違いなかった。
 アリオスと共有した時間を、ようやく言葉にすることが出来たのだから。
 なんとか話したかった。
「そうだな。ここじゃ、小さなものでも、本当に綺麗に見えるからな」
「そうですね」
 堅くぎこちない会話だが、ないよりはましだと、アンジェリークは思わずにはいられなかった。
 やがて、薄暗い光しか射さなかった森が開け、目の前には素晴らしい風景が広がっていく。
 澄んだ空気と空間の果てには、虹がかかっていた。
「凄い! 虹だわ!」
「雨が降って、綺麗な空気に包まれているからな…」
 アリオスは眩しそうに目をほそめると、虹をじっと見つめる。アリオスの瞳は、どこか影を落としているように見えた。
 願いを叶えるという、虹に免じて、今なら思っている事を聞き出せるかも知れない。
「アリオス先生、どうして、私を離したの?」
 真剣に考えながら、アンジェリークは思い詰めた表情で呟く。
「-----アンジェリーク。おまえは俺とのプライベートレッスンをまだ望んでいるか?」
「-----はい」
 アンジェリークは自分の気持ちに素直に頷いた。
 アリオスのプライベートレッスンはまだまだ受けてみたい。
「さっきみたいに中途半端な中断はしないで下さい。私は切なくなります…。一緒にいて欲しいのに…。」
 アンジェリークはアリオスに素直な気持ちを吐露する。するとアリオスは、アンジェリークの手の甲を撫でた。
「おまえに本当の意味で準備が出来ていれば、問題はねえとは思うが…」
 アリオスには珍しく戸惑っているように思えた。
「-----準備なら出来ているよ…。我が儘言わないから…だから」
 言葉の端々が涙で滲む。
 もっと、もっと、アリオスとラブラブしていたいのに、こんな風に突き放されるのは嫌だ。
「おまえがどれぐらいの実力か、試してやるよ」
 アリオスはアンジェリークを抱き寄せると、キスをする。
 吐息が詰まりそうなほど気持ちが良かった。
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