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「…ここで一緒に暮らさないか?」 吉羅の言葉に、香穂子は胸の奥から熱いものが流れるのを感じた。 嬉しくてしょうがない。 ずっとそばにいられるのだから。 「…嬉しいです…。私、吉羅さんと一緒に暮らしたいです…」 「有り難う」 吉羅は、香穂子の頬に手を伸ばすと、優しく撫でてくれた。 「…私はもう…君を離せない。婚約解消の手続きを終えたら、君を捕らえるから…」 「私もあなたに捕らえられたいです…」 なんてロマンティックな言葉なのだろうかと、香穂子はうっとりとした。 「香穂子、君には留学を諦めて貰うことになるが構わないね? というよりは、私が行かせたくはない…。君の将来の芽を摘み採るようなことはしたくはないんだが…」 「…吉羅さん…」 恋を取るか。 それとも自分のキャリアを取るか。 なんて難しい選択なのだろうかと思う。 吉羅のそばにいたい。 だが、ヴァイオリニストとしてのキャリアを追いかけたい。 どちらも棄てることなんて出来ないから、選択に困ってしまう。 「…あなたのそばにいながら夢を追いかけたいです…。留学だけが総てではありませんから…、日本で出来るのが限りのことをしてみたいんです…。枠に囚われるのではなく、私らしく、頑張ることが出来ればと、思わずにはいられません」 吉羅は頷いてくれると、香穂子の頬をそっと捕らえてくれる。 「…私も出来る限りのサポートをしよう。君が前を向いて頑張っていられるように」 「有り難うございます」 前向きに真直ぐに、恋も夢も手に入れられたら良いと思う。 香穂子はにっこりと笑って頷いた。 新しい旅立ち。 そう信じて、香穂子は一歩踏み出す為に頑張ることにする。 その先には明るい未来があると信じていた。 その日、吉羅は、婚約者と打ち合わせをする為に逢うことにした。 吉羅の前に現われた婚約者は、相変わらず非の打ち所などないほどに美しい。 「暁彦さん、お待たせ致しました」 ビジネスライクな態度に、やはり彼女のこころは誰かにあることを確信する。 ならばお互いにこの結婚が有益になるとは、思えなかった。 「…結婚式の打ち合わせをしなければなりませんね。招待状発送はまだですが…、リストは既に出来ています。後は手配を掛けるだけです」 まるで秘書のような婚約者の態度に、吉羅は苦笑いを浮かべるしかない。 本当に結婚を“義務”としてしか考えてはいないようだった。 「…君は、本当に…、私と結婚したいと思っているのかね…?」 吉羅は、婚約者のこころを見透かすようなまなざしを向ける。 「…え…」 一瞬、目の前にいる美しい女性は言葉を詰まらせた。 「…それは、お父様が…」 「父親が決めたことを何でも従うのかね? 君は…」 深みのある声で、吉羅はゆっくりと話す。 今まで完璧な陶器の人形のようだった表情が、一気に崩れ落ちていった。 「…それは…」 「君は他に好きな男はいないのかね? 生涯を懸けても良いような…」 吉羅の言葉に、婚約者は泣きそうになっている。 その崩れた表情のほうが、普段のものよりも美しいと思えた。 「…君はこころに正直に生きたほうが良いと思うよ…。…私はね…。こころを殺して生きていたら、いつか息苦しさを感じるようになる…。私自身はそうなりたくない。だから君にお願いがある」 吉羅は婚約者の目を真直ぐ見つめると、口を開く。 「…私との婚約を解消して欲しい。…私は…、心から愛することが出来るたったひとりの女性を見つけた…。これは私が全面的に悪いから…、総てに於いて誠実に対応させて貰うつもりだ…」 「…暁彦さん…」 婚約者は驚いたように息を呑んでいる。 「…何もかも失ったとしても…、私は彼女と一緒にいたいと思っている。私が欲しいのは彼女だけなんだよ…」 「暁彦さん…」 吉羅は深々と頭を下げると、顔を上げることは出来ない。 自分が全面的に悪いからことは解っているのだから。 「…暁彦さん…私…。…私…」 あんなにも冷静沈着だった彼女が、初めて人間らしい表情をする。 今まで、様々な感情を、ずっと押し殺してきたのだろう。 「…解りました…。私…結婚をすれは、あなたを愛することが出来るのではないか…だとか…、そんなことを考えてばかりいました。あなたの前では、大人の女性として振る舞わなければならないだとか…、そんなことばかり考えていました…」 婚約者は涙を瞳に滲ませながら微笑むと、吉羅にゆっくりと頷いた。 「解りました。この結婚はなかったことにしましょう…。私も…、あなたと同じように、大好きなひとがいます…。その人の前では、素直でいられるんです…。結婚すれば、彼とはあえなくなると、ずっとそのことばかりを考えていたんです。だけど…、こころが軽くなりました。私も何もかも喪っても構いませんから、彼との恋を貫こうと思います」 泣き笑いを浮かべた彼女は、本当に純粋に綺麗だと思った。 「君から父上に話し難いだろう…。私と私の弁護士を同席させて貰い、お伝えしようかと思っている」 「有り難うございます。そうして下さると助かります」 「こちらこそ、君にはとても申し訳ないことをしたね」 吉羅は静かに呟くと、謝罪を込めたまなざしを浮かべる。 「…暁彦さん…。私こそあなたに有り難うを言わなければなりません。私の心を羽根のように軽くして下さって有り難うございます…。本当に感謝しています」 素直な笑顔を浮かべた後、彼女は涙を浮かべる。 「…あ、似合わないですね…。私に涙なんて…」 彼女が泣いている姿を見ると、まるで兄のような気持ちになる。 「…大丈夫だ…」 吉羅はそれだけを言うと、こぼれ落ちている涙をハンカチで拭ってやった。 その時の笑みを、忘れることが出来ないと思った。 吉羅が婚約者に正式に婚約解消を伝えに行っている間、香穂子は心配そうに待っていた。 彼女が泣き出して苦しんだら、これほどに辛いことはない。 勝手に好きになってしまったのはこちらだから。わがままなんて言えないのだ。 香穂子が彼女を深く傷つけたという事実は、深く残るのだから。 傷つけたくないと思う心よりも、吉羅への愛が勝ってしまった。 吉羅の婚約者が何を言ってきても、言い訳なんて出来ない。 香穂子は重苦しい気分になりながらも何とか乗り切ろうとしていた。 スタジオでのヴァイオリン収録が終わり、吉羅との待ち合わせ場所に向かう。 上手くいったのだろうか。 それとも…。 不安に駆られてしまい、香穂子はそれを振り払おうとする。 胸がキリキリと音を立てるほどに痛かった。 待ち合わせ場所近くに差し掛かる時、香穂子は吉羅の姿を見つける。 何度も見たことがある美しい婚約者と吉羅が向かい合って話しているのが見えた。 普通に見れば、彼ら程、お似合いのふたりはいない。 本当に絵に描いたようなふたりだ。 香穂子はふたりを見つめているだけで、泣きそうになった。 不意に婚約者が涙ぐむ。 吉羅のハンカチが、そっと婚約者の涙を拭った。 ふたりがどのようなことを話しているかは解らない。 だが、吉羅の瞳も婚約者の瞳も愛情が滲んでおり、香穂子はこれ以上は見つめることは出来なかった。 胸が痛くて、涙がこぼれ落ちる。 香穂子は思わず走ってその場を立ち去ってしまった。 |