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どうしてこんなにも走ってしまったのか、香穂子は解らない。 ある程度走った後、香穂子は息を乱して木の前で立ち止まった。 余りにもふたりが似合いだったからかもしれない。 見た目からいけば、あれ程バランスが取れているカップルはいない。 恐らくは生きて来た世界が同じだからだろう。 香穂子は、切なくて重い気持ちになりながら、ただ木に凭れて溜め息を吐いた。 どうしてこんなにも好きなのだろうか。 何だか自分だけが一方的に好きなように感じてしまう。 それは相手が大人の男性だからかもしれない。 香穂子は溜め息を吐きながら、ただ空を見上げるしかなかった。 重い女にはなりたくないのに、今は完全に重たい。 香穂子はこの重さを何とかしなければならないと思いながら、エンドレスな溜め息を吐いた。 吉羅は窓の外に、一瞬、香穂子がいるのではないかと思った。 だが直ぐに風のようにいなくなってしまい、吉羅は思わず立ち上がった。 「…どうかされましたか?」 「…いえ…」 吉羅はごまかすように言い、そのまま椅子に腰掛けたが、婚約者は柔らかい笑みを浮かべて見つめてくる。 「…お知り合いの方ではありませんか? 私もそろそろ行かなければなりませんから、この辺りで失礼致します。父との面談は、弁護士さんを通じてまた日程を調整致しましょう」 「有り難う」 婚約者が立ち上がると、吉羅も同じように立ち上がる。 ティールームを清々しい気分で出て、吉羅は婚約者が歩いていく姿を見送る。 まだ始まったばかりだが、確実に一歩を踏み出すことが出来たのは確かだ。 吉羅は踵を返すと、香穂子との待ち合わせ場所へと歩いていった。 きっとこの報告を喜んでくれるだろう。 まだ一歩を踏み出したに過ぎないが、吉羅は心地好い気持ちだった。 ほぼ定刻通りに約束の場所に着いたのに、香穂子はいなかった。 遅れているのかと思いながら、辺りをゆっくりと見回してみる。 すると木に凭れながら、ぼんやりと空を見上げている香穂子を見つけた。 紅と紫の見事なコントラストが美しい夕暮れの空を、香穂子は真直ぐ見つめている。 本当に美しくて、こころが揺れ動いた。 名前を呼び掛けるのが憚られるほどに、今の香穂子は美しくて、何時までも見つめていたかった。 瞳に涙をうっすらと貯めている姿は、このまま誰にも見せたくはないと思う程だった。 「…香穂子…」 名前を呼びながらゆっくりと近付くと、香穂子はハッと息を呑みながら、視線を吉羅に合わせてくる。 「…吉羅さん…」 「香穂子、お待たせしたね」 「そんなには待ってはいないです」 香穂子は柔らかく言いながらも、視線を合わせては来ない。 まるで何かを堪えているようにしか見えなかった。 「…どうしたのかね?」 「…何でもありません…」 香穂子は一生懸命笑顔になろうとしてはいるが、それが逆に切ない雰囲気を滲ませている。 「…彼女は…解ってくれたよ。彼女もまた、別に愛する男性がいるそうだ。だから、お互いに、結婚はしないほうが良いと、結論を出したよ」 「…吉羅さん…」 香穂子は驚いたように息を呑んだ後、何処か緊張の糸がプツッと切れたかのように、泣き笑いの表情を浮かべて来た。 「…良かった…、私…」 涙でぐちゃぐちゃになりながら、香穂子は笑っている。 その表情はなんと魅力的なのだろうかと思った。 きらきらと輝いているように見える。 吉羅は香穂子の涙に指先を伸ばすと、柔らかく拭う。 「ゆっくりと話さなければならないね。うちで話すのが良いだろう。途中で夕食を調達して帰ろうか」 「はい」 吉羅がしっかりと手を握ると、香穂子もまた握り締めてくれる。 その柔らかな力が、吉羅には何よりも愛しかった。 吉羅の車に乗って六本木へと向かう。 ミッドタウン内のデリカで夕食を調達した後で、吉羅の自宅へと向かった。 「ゆっくりとしたいからね。先にシャワーを浴びて着替えてしまおうか」 「そうですね」 ふたりきりの濃密な時間が始まる。 背伸びで始まった恋であるはずなのに、いつの間にか、吉羅のそばにいるとありのままの自分でいられることに気が付いた。 吉羅と抱き合っている時が、最高に幸せな気分になっているのではないかと思う。 吉羅のそばにいるだけで、幸せがどのようなものであるかが解るような気がした。 ふたりで食事の準備を終えて、同時にテーブルに着く。 「君に色々と話さなければならないね」 吉羅は香穂子を真直ぐ見つめてくる。 その瞳の甘い情熱に、香穂子は蕩けてしまうのではないかと思う程に燃え上がるのを感じた。 「彼女とは正式に婚約解消をする。とは言っても、私たちふたりの間での合意だから、これから幾つかのプロセスを踏まなければならないがね。弁護士を通して、彼女の父親には正式に逢って、解消を伝えるつもりだ。それには彼女も同席をすると言ってくれている。ある意味これが一番の難関なのかもしれないがね」 吉羅は苦笑いをすると、ローストビーフにナイフを入れた。 「彼女…泣いていましたね…。あ、あの、待ち合わせ場所に行くのに、偶然前を…」 「やっぱり君だったんだね。君が一瞬、私たちを見つめていたのではないかと思ったものだからね…。彼女は、体裁ばかりを考えて結婚しようとしていた呪縛から解放されて、泣いたんだよ…。愛する男がいるらしいがね。泣く泣く諦めようとしていたようだ」 「…そんな…」 自由に恋をすることが出来ない吉羅の婚約者が余りにも可愛いそうだと思ってしまう。 「…だから、泣いていらっしゃったんですか…」 「そうだ。今まで余りにも自分の感情を押さえ付けていたようだからね…」 吉羅は、自分にも思い当たるところがあるからか、苦々しい表情を浮かべていた。 「自分が最も欲しいものを諦めるのは良くないと、彼女には伝えた。現に、私は君を諦めようとして、かなり 苦しんだのだからね…。だから彼女の気持ちはよく解った…」 「吉羅さん…」 吉羅の痛そうな言葉を聞きながら、香穂子は頷く。 吉羅を諦めようとしていたのは香穂子も同じだからだ。 「…先程、君が泣きそうにしていたのはどうしてかね?」 「…吉羅さんと…婚約者の方が余りにもお似合いだったから、切なくなったんですよ…。…私…、吉羅さんが彼女の涙をハンカチで拭っているのを見るのが、とても辛かったんです…。ふたりがぴったりに思えたから…」 「香穂子…」 吉羅は香穂子の手を握り締めると、優しい笑みを浮かべながら見つめてくる。 「香穂子、私が指先で涙を拭うのは君だけだよ…。他にはいない」 「…吉羅さん…」 吉羅が婚約者の涙を拭っていたのは、確かにハンカチでだった。 「…君は何も心配しなくて良いんだ…。私は…、君を誰よりも愛しているよ」 吉羅は香穂子に甘い愛を伝えてくれると、ゆっくりと抱き寄せてくれた。 「私を、吉羅ではなく…、暁彦と…名前で呼んではくれないかね…?」 「…吉羅さん…」 吉羅の名前を呼ぶなんて、香穂子にとってはかなり恥ずかしい。 名前は特別な響きを持っているような気がするから。 「…名前で呼んでは貰えないかね…?」 吉羅に懇願されるように言われると、香穂子は弱い。 何とか勇気をかき集めると、深呼吸を深くした。 「…暁彦さん…」 小さな声で言った瞬間、吉羅は立ち上がり、香穂子を抱き上げてくる。 「食事は後だ。君が欲しい」 吉羅にそのままベッドに運ばれた。 |